山の上国際総合病院の第2歯科・通称・院内歯科。ここは病院歯科ではなく、少し特殊な歯科である。
何処が特殊かというと・・・職員のみを対象とした歯科なのであった。
山の上国際ほどの病院になれば、看護婦だけでも500人以上。しかし、医師や看護婦は、勤務時間が長く、不規則で、通常の歯科医院が診察している時間に患者として訪れるのはほぼ不可能に近い。そこで、山の上国際では、院内に、職員用の、診察時間24時間の歯科を設置しているのであった。スタッフ数もユニット数も、通常の患者対象の第1歯科よりも多い。
循環器内科の、看護婦3年目、美咲は、これから夜勤に入る同期の彩に申し送りをしながら、右手を頬に当てていた。
ああ、ついに痛み出しちゃった・・
美咲は、看護婦になってから、歯が悪くなった。生活が不規則なうえ、夜勤中はやはり、いろいろと間食をつまむ機会も増える。そしてなにより、歯医者に行くことができないのである。2年目の夏ごろから、右下に、虫歯があることには気付いていたのだが、治療に行けず手をこまねいているしかなく、当然、虫歯は順調に進行し、ついに、さっきから、ズキズキと痛み出したのだった。
彩は、そんな美咲の様子に気付いた。
「美咲・・歯が痛いんじゃない?」
「そうなの・・でも今からだとやってる歯医者さんなんて・・」
美咲は困ったように言った。
「美咲、院内歯科知らないの?」
「えっ?」
「この病院の中にあるのよ。24時間やってるわよ。私もしょっちゅう通ってる。仕事始めてから、ホント歯が悪くなっちゃって。」
彩は、美咲に、あーんっ、と口を開けてみせた。
美咲は、あっ、と声を上げた。口の小さい和風美人、として、入院患者からも人気の高い彩の口の中は、奥歯のほとんどに銀歯が詰められるか被せられるかした、ギラギラの状態だった。これは、大口を開けて笑わないわけだ・・
「でも、ホントに助かるわよ。院内歯科、通いやすいもん」
と、彩は言った。
「知らなかった・・。でも、予約とか要るんでしょう?」
美咲は、歯の痛みに顔をしかめながら聞いた。
「ううん、先生もたくさんいるし、飛び込みでも見てくれるわよ。それこそ今からナース服のままで行っても。」
彩はそう言って、場所を教えてくれた。
仕事は終わったので、美咲は、着替えると、院内歯科に向かった。地下2階・・・倉庫か、戦前の防空壕しかないと思っていたフロアに、院内歯科はあった。
受付に行き、痛むのですぐに見て欲しいと伝えると、待合室で待つように言われた。
順番がくれば、院内PHSで呼び出してもらえるため、急患以外の場合なら、待つ必要はないと聞いたが、待合室には、10名ほどが待っていた。美咲のような私服姿のほか、紺色のカーディガンを羽織ったナース服姿が目立つ。白衣から、女医と思われる女性が、鼻の下を押さえて、顔をしかめて座っている。・・男性はいないようだ。もっとも、病院の職員は、看護婦ゆえに、圧倒的に女性が多いのだが。
5分ほどで、前歯が痛むらしい女医、ナース数名が呼ばれ、10分ほどで、美咲も呼ばれた。
「内藤美咲さん、14番にどうぞ」
少なくとも14台も治療台があるのだろうか。診察室に入ると、たしかに、多くの治療ユニットが並んでいた。高い衝立で半個室状態に仕切られており、美咲は、奥から2番目の、14、と書かれた治療ユニットに座った。
しばらくすると、短白衣姿の女性歯科医と衛生士がやってきた。
「内藤さん、歯が痛む?」
「はい・・ここがあると知らなくて・・歯医者に行けないまま虫歯を放置してしまって。」
「あら大変。とにかく診ましょ。」
テキパキと、叱るでもなく事務的に、診察が始まった。治療台が倒され、ライトが点灯した。
「はい、あーん・・・右下?あー、これは痛いですね、で・・他は?」
「はい?」
「他の虫歯はどうしますか?治療しますか?ま、でも、いつでも来られるから、また後で考えて。とりあえずここ治しましょう。」
「はい・・」
診察と同様、治療も、事務的に、スピーディーに始まった。
「麻酔しましょうね・・・ちょっとチクっとしますよー・・」
「ん、んぁ、あ・・」
歯の痛みに我慢できず、駆け込んできたが、実は美咲は歯の治療が苦手であった。もちろん得意な人も少ないが、おそらく、普通の人よりも、かなり苦手である。
ズキズキとした激しい痛みが、麻酔の作用なのか、やや鈍くなってきたころ、美咲はすでに、歯科に来たことを後悔し始めた。しかし今からは帰してもらえないであろう。美咲は憂鬱になってきた。もうすぐ、あの嫌な音を聞きながら歯を削られるのだ。
「そろそろ・・麻酔効いてきましたよね」
歯科医が、マスクをして、タービンを右手に持って構えた。衛生士も、左側でバキュームとシリンジを持って構える。
「はい・・あーん」
一瞬の間のあと、美咲は意を決して、目をぎゅっとつぶり、口をおそるおそる少しだけ開けた。
「内藤さーん、もう少し開けようか」
おそらく衛生士が、顎をぐいっと引っ張り、美咲は大口を開けさせられた。すぐに、ヒュィイイイイイン、というドリルの音がして、美咲の歯に振動が伝わってきた。歯が削られ・・あの独特の臭いが漂ってきた。
「ぁっ、ぁっ、あっ・・」
イ、イヤ・・・美咲は、早くも声を上げ、足をもぞもぞ動かし始めた。顎は衛生士がしっかりホールドしていたが、頭もかすかにイヤイヤをするように動かしてしまった。
ヒュゥゥゥウ・・
歯科医は、叱るでもなく、タービンを止めた。治療、やめてもらえるの!?美咲は一瞬期待したが、衛生士はすばやく立つと、治療ユニットの横からベルトを引っ張り出し、カチリ、カチリ、カチリと、両腕、腰、膝のところで美咲を治療台に縛り付けた。同時に、歯科医が、ヘッドレストを少し両脇に引き出すと・・美咲の頭をホールドするようにセットした。何をされたのか分からないほどの早業だった。美咲は、治療ユニットに拘束されてしまった。動揺する美咲に、歯科医は何事もなかったかのように、
「では続けますね。はい、お口開けて・・」
と言った。美咲が、他にどうすることもできず、口をかすかに開けると、衛生士がその隙間から開口器を挿入した。カチカチ、カチカチ、と衛生士がネジを回し、美咲の口は開かされた。さらに、唇にリトラクターも挿入され、美咲は見るも無残な姿にされていた。
「あ・・んがぁ・・ぁ・・が・・」
抵抗しようにも、喉から搾り出すような声しか出せない。歯科医と衛生士は、再び冷静に治療を始めた。
ここでは、無駄に叱ったり説教をしたりすることよりも、効率良く治療を進めることが優先されているのであった。患者は職員のみであるから、特にサービスに気を配る必要はない。が、歯が悪ければ生産性が落ちるので、治療はきちんとする。単純な話である。
ヒュィイイイイイ、ヒュィイイイイイ・・・・ジュボボオ、スココココ、チュィイイイイイ、チュィイイイイ・・・
美咲の進行した虫歯は、容赦なく削り取られていく。やがて・・・
「ぁあああ、あふぁあああ・・ぁああがっ!・・ががぁあっ!!」
美咲の声が呻き声に変わってきた。
「内藤さん、痛みますか・・・もうちょっと我慢して下さいね・・・もうすぐですからね・・・」
どんなに痛がっても、暴れたりする心配はないので、歯科医は歯を削る作業に集中して、治療を進めていく。
「ふぁあああ・・ぁんあがっ!・・ぁがぁああ・・」
美咲は、先ほどの虫歯の痛みよりも、はるかに大きな痛みを感じていた。ああっ、・・治療になんて来なければよかった・・・あァっいっ痛イッ・・
あまりの痛みに、ついに涙が出てきた。ふと目を開けると、ライトの握りの金属部分に、自分の顔が映っていた。口を無理やり開けられ、器具を口の中に突っ込まれている・・美咲は、直視できず、再び目を閉じた。
ヒュゥウウウウ・・・
その後しばらくして、ようやく、タービンの音が止まった。解放されて、口を濯がせてもらえる・・美咲は思ったが、拘束は解かれなかった。
リトラクターだけが外され、衛生士は、美咲の顔をヘッドレストごと横に向けると、スリーウェイシリンジよりも水の出る管で、美咲の口腔内を上唇や下唇もめくりながら、洗浄した。水は顔の横に置かれた容器に流れ落ちて、ジョボジョボジョボ、と音を立てた。
洗浄が終わると、バキュームで口腔内に残っている水を吸い取り、再びリトラクターがはめられた。
「虫歯は削り終わりましたから・・これから、神経を取る治療をしますね。もう少し痛みが続きますけど・・我慢して下さいね」
ふたたび歯科医が静かに言い・・・美咲にとっては、削られるよりもさらに苦痛の時間となった。
「ん、んあがっ!・・ぁがぁああ・・っひぃ、ぃいいいいい」
すでに声は枯れてきたが、叫び声を上げずにはいられなかった。
「ん・・綺麗になりました、次回、次の段階に移れると思いますよ。じゃ、封しますね」
最後まで、穏やかな調子で壮絶な治療をした歯科医は、美咲の歯に仮封を済ませると、ようやく、拘束を解いた。
「次は・・明後日以降で、来られるときになるべく早くいらして下さい」
美咲は逃げようかと思ったのだが、婦長や主任に連れて行かれ、美咲のそのひどい虫歯は、3週間後、銀色に輝くクラウンに換わった。
当然、その他の虫歯の治療は希望しなかったが、しばらく経つと、別の虫歯が痛み出し、院内歯科に駆け込み、拘束治療を受けてクラウンに換わり・・・同じことを三度繰り返した後、観念してC2以上の虫歯は全て治療してもらい、美咲は、彩と同じような、銀パラクラウンとインレーがまさに咲き乱れる口腔内になったのだった。
第2歯科は、今日も多くの患者であふれている・・・