木戸彩は、山の上国際総合病院で働き始めて、そろそろ1年半になる看護婦だった。

 

夜勤の日。第2回の病棟の見回りが一段落し、ナースステーションに設置されている飲料水スタンドでグラスに冷たい水を汲み、

申し送りテーブルのチェアに腰を下ろした。さて、カルテの整理・・その前にちょっと一息、と、グラスの水を口に含んだ・・とたん。

「あっ・・つぅっ・・・」

左上の奥歯に、ガーン、という強い衝撃が走ったような気がした。思わずグラスを取り落としそうになる。

-虫歯・・かしら・・・

そういえば、今までにも、ときどきしみていたのだが、今のような強い痛みは初めてだった。

鏡の前に行き、あーっ、と口を開けて、上を向いてみる。

-うまく見えないわね・・・

周囲を見回すと、小さな手鏡があったので、口の中に入れて、合わせ鏡にして・・。

-うーん・・・この辺かなあ・・

奥歯の溝が薄い茶色になっていて、中央にごく小さい穴が開いている。

-そんなに酷い虫歯には見えないんだけど・・その手前の歯は治してある銀歯だし・・・

一生懸命に彩が鏡を覗き込んでいると、後ろから主任の高島が声をかけた。

「木戸さん、どうしたの?歯が痛いの?」

「あっ・・主任・・」

何も悪いことはしていないが、あわてて主任のほうに向き直る。

「水がちょっとしみちゃって・・」

「そう。歯科には通ってるの?」

「いえ・・なかなか時間が・・行かなくちゃ、とは思ってるんですけど」

彩は、歯が悪いと言う自覚はなかったが、小学生のころから、歯科検診で治療勧告をもらわなかった年はなく、大きな治療はなかったものの、白いレジンや、小さめのインレーでほとんどの奥歯は治療済みであった。先月、インレーのひとつが外れてしまい、ずっと気にはなっていたのだ。

「この仕事はどうしてもね・・歯が悪くなるわ、私、中学生のころまで、歯がきれいって毎年表彰されてたくらいなのよ、そうは見えないでしょうけど。短大を出たころは全部自分の歯だったわ」

そう言って笑った高島は、たしか30代前半だが、前歯にずらりと差し歯が並んでいる。素人の彩から見ても差し歯だ、とわかるのは、歯茎との間が黒く見えているからである。歯茎もどす黒く変色してしまっている。入れてからずいぶん経っているはずだ。こんな風になっちゃったらどうしよう。彩は少し怖くなった。

「でも、なかなか歯医者さんが開いてる時間には行かれなくて。夜勤明けの日に一度予約入れたんですけど、気づいたら夕方まで寝てしまって・・」

「あら、木戸さん、院内歯科知らないの?」

「いんない・・病院の中ですか?あそこも5時までですよね」

「違うのよ、職員向けに、24時間やってる、第2歯科っていうところがあるの。地下2階よ。予約もいらないから、今日終わったら行ってみたら?」

「知りませんでした・・・行ってみます。」

そうは言ったものの、その日は、疲れてそのまま家に帰ってしまった。

しばらくまた忘れていたが、3日後の日勤が終わり、ロッカールームに入ってキャミソールに着替え、帰り際に、また水を口に含んだ瞬間・・・、ズキーン!と、夜勤のときと同じ場所が痛んだ。

-あ・・うぅぅ・・

思わず、頬に手を当ててしまう痛みだ。

-なんだっけ・・第2歯科・・行ってみよう・・・

彩は、こうして、第2歯科に駆け込んだのであった。

 

地下というので、恐ろしい場所を想像しながら行ってみると、意外にも明るくて綺麗なところであった。

「あの・・予約なくてもいいと聞いて来たのですが・・」

「はい、所属と職名、お名前は?」

「消化器の看護婦の、木戸彩です。」

「はい・・初めてですね。今日は日勤明けですね・・では、お時間は大丈夫ですね?」

受付の女性は、端末をたたいて即座に答えた。勤務状況も呼び出して治療を組むことができるのだ。

「はい。」

「痛みますか?」

「少し・・」

「今、ちょうどナースの勤務明けで少し混雑しているので・・そうですね、30分くらいお待ちください。我慢できますか?」

「はい。」

「では待合室でお待ち下さい。」

言われて待合室に入ると、たしかに、顔見知りの看護婦や・・ナースキャップをかぶったままの看護婦もいる。10人ちょっとだろうか。

彩は、暗い顔でうつむいている、同期の朱実を見つけた。

・・朱実も?

-たしか、朱実の実家は田舎で歯医者をしているとかで、虫歯のない、綺麗に矯正された白い歯並びが印象的だったけれど・・。

「あ、彩。」

朱実が見つけて、手招きした。

「朱実。どうしたの?」

「どうしたのって、ここに来てるんだから、決まってるじゃない。歯の治療よ。痛くって、仕事終わって駆け込んできたの。」

「でも朱実・・歯、綺麗じゃない」

「綺麗だった、よ。元は丈夫じゃないのよね・・この仕事になってから、ガタガタっと来ちゃった。銀歯もできちゃったし。」

あーん、と朱実が口を開けて見せる。下の奥歯に、4本の銀歯が光る。

「でも、今日来たのは・・」

いーっ、として見せた前歯は、4本のうち、右の2本は綺麗だったが、左の2本が歯の間から虫歯になっているのがわかる。

「あ・・」

以前の綺麗な歯を見ているだけに、彩は朱実の心情を思って心が痛んだ。

「もう前歯の治療、ものすごく痛かったから、二度と嫌、って思ってたんだけど、また痛み出しちゃったから、仕方なくね・・このぶんじゃ、また差し歯だわ・・」

「えっ?」

「こっちの2本は、もうダメになって、差し歯よ。」

朱実が右の前歯を指差す。

「見る?」

朱実は、自分から口を開けて、上を向き、前歯の裏の黒々とした金属があらわになった。奥にも、銀歯があるのが見える。

「こんな酷い歯にするなんて、看護婦になんかさせるんじゃなかったって、親が泣いてるわ、はは」

自嘲的に笑う朱実に、彩が何も言えずにいると、ちょうど、

「坂崎朱実さん、11番の治療台へどうぞ」

と朱実が呼ばれ、診察室へと入って行った。

 

周囲が次々と呼ばれ、また、外から待合室を素通りして診察室へ入っていく医師もいるようだ。何人か知り合いも待合室に新しく入って来たが、皆、一様に暗い顔をしているので、特に会話は交わさなかった。

-こんなに歯の悩みを抱えてる人が病院の中にいるんだわ・・

彩自身も、ときどき痛むような気がする左頬を押さえながら、自分も、同じように暗い顔をしてるんだろうな、と思った。

ようやく、

「木戸彩さん、7番へどうぞ」

と呼ばれ、診察室へ入ると、見たこともないほど奥行きのある診察室であった。

それぞれの治療台は、高い衝立で、半個室に仕切られている。7、と書かれた治療ユニットに入っていった。

「木戸さんですね、どうぞ。」

中に居た衛生士と、若い男性歯科医が、声をかけた。

「はい・・よろしくお願いします。」

「今日は・・痛むところがある?」

「ええ、いつもじゃないのですが・・左上の奥の方が少し。」

「では診せて貰いましょう」

治療台が倒され、ライトが点灯される。

「うーん・・・どれだろう・・・もしかしてこれかな?」

歯科医が、スリーウェイシリンジを取って、小さく穴の開いた7番にエアーをかける。

「ぁぐっ!!」

突き抜ける痛みに、彩は思わず、変な声を上げた。

「小さそうに見えるけど、中で広がっちゃってるタイプかもしれないね・・で、他は・・ああ、インレー取れちゃってるね、ダメだよこれは放置しちゃ。」

「ふ・・ふいまへん」

「他にもいくつもありそうだけど・・ま、とりあえず、痛むところと、インレー取れてるところは治しましょう。じゃ、早速始めるよ、麻酔するからね」

そのまま、表面麻酔が塗られ、シリンジが近づいてきた。

-え、ええっ・・・

これまでにかかった歯医者では、ここが虫歯です、とか、鏡を見ながら説明してくれて、銀歯になりますとか、白いので治りますとか・・

彩は戸惑っていたが、歯茎に刺される針の痛みに思わず、

「うっ・・ん・・」

と声を上げていた。

「外側にも打つね」

いきなり、ミラーで唇を外側に引っ張られ、またも針が刺される。

「うぅ・・・」

針が抜かれると、たしか、ここで口をゆすがせてもらえる・・と彩は思ったが、治療台が起こされる気配はない。ふと見ると、治療台のそばにコップや水の出る管・スピットンなどはなかった。あれ?と思っていると、衛生士が、

「口開けててくださいね」

と言って、彩の顔を横に向けたと思うと、水の出る管で彩の口腔内を洗浄し、水は顔の横の容器に流れ落ちた。その後、バキュームで残った水分を吸い取られる。

顔を上向きに戻されると、

「じゃ、削っていきましょう」

いきなり、歯科医がミラーとタービンを手に構える。すべての治療がかなり機械的に、さっさと進められるようだった。

「お口開けてくださーい」

衛生士が言い、こちらもバキュームとスリーウェイシリンジを構えた。

彩が口を開けるとすぐ、ヒュィイー、というタービンの音が聞こえてきた。

チュイン、チュイン、チュイン・・・

歯に伝わる振動を感じながら、彩は目を閉じた。

彩の、表面に小さい穴が開いていただけの虫歯は・・・穴の周囲から削り始めると、すぐに手ごたえが軽くなった。

-これは中が崩壊してるかな・・

歯科医が思った通り、彩の7番は、表面が残っていただけだったらしい。中は虫歯にひどく侵され、空洞になってしまっていた。

ヒュゥゥウウウウ・・

-あれ、もう終わり?よかった、削るの短くて・・・

彩がホッとして目を開けると、歯科医はタービンの先を付け替えていただけで、再び、彩の方へ向き直った。

ビュィイイイイ・・・・

さっきまでよりも、低い音でうなりながら、タービンが彩の歯に食い込んだ。

ビュイン、ビュイン、ビュイン・・・

虫歯の内部の崩壊した歯質を、掻き取るように除去していく。

ビュインビュイン、ビュィイイイイ

「ん・・ぁ・・あ・・・・」

やがて、彩の喉の奥から、声が漏れ始めた。

-い、痛い・・・麻酔したのに・・・痛いって・・・

「あ・・あはぁ・・いはぁい・・・」

手をぎゅぅっ、と握り締め、足をぴぃいいん、と伸ばして、全身で痛みに耐える。ジーンズから覗く、水色のペディキュアをした素足が、もぞもぞと動いている。

「動かないでくださいねー」

「はーい、我慢、我慢しようねー」

歯科医と衛生士が口々に声をかけるが、治療の手は緩めない。

-これは根治だな・・・

崩壊した歯質を削っているうちに、露髄してしまったが、そこから覗く歯髄は、どす黒く変色してしまっている。

ビュゥウウウウウ・・・

ようやくタービンの音がやんだ。痛みから解放された彩が、ほうっ、とため息をついて、体の力を抜いた。が、さらにタービンの先を付け替えた歯科医が、タービンを構えている。

「はい、あーん・・」

チュイイイイ、チュイン、チュイン、チュイイイイイ

再び、甲高い音を立ててタービンが、彩の歯に食い込む。

「んあぁあああっ!」

ひときわ強い痛みに、彩は我を忘れて大声で叫び、あごが上がりそうになる。脚も少し動きが大きくなった。すると、衛生士はスッと立ち、

ユニットからベルトを引き出し、カチリ、カチリ、カチリ、と彩の膝、腰、両腕部分を拘束した。

-※☆!?

まさに、治療台に縛り付けられた形となり、彩は怯えた。

が、歯科医も衛生士もお構いなしに治療を続けている。

ヒュゥゥウウウ・・・

タービンが止むと、衛生士が、ヘッドレストの両脇を少し引き出し、彩の頭をがっちりとホールドしてしまった。

-え、やだ・・

さらに、

「はい、お口開けて・・」

と、彩の顔を横に向けて、洗浄する。いちいち治療台を起こして口をゆすがせていると、時間の無駄だということで、特別に第2歯科で使われているシステムだ。

顔を上向きに戻すと、後ろから、助手が、何か尖ったものがたくさん刺さった小さい箱を持ってきて、トレイに置いた。

-・・何なの?それ・・・

彩が不安に思っていると、

「虫歯がひどかったのでね、神経まで行ってしまっています。これから神経を取っていきますから。もうすこし痛みますけど頑張って。」

歯科医はさらりと言い、その尖ったファイルを手に取ると、削り終わったばかりの彩の7番に、挿入していった。

「ぁ、ああはぁあああっ!いあ、いあぁああっ」

しかし、体も頭部も、治療台に固定されてしまっているので、どんなに叫んでも、もがいても、治療には影響がなく、歯科医は冷静に、

コリコリ、コリコリ、と、彩の虫歯に侵されてしまった歯髄を除去していった。

-かわいい顔してるのに、歯の中がこんなに汚いなんてね・・・ちゃんと綺麗にしないとダメじゃないか。

コリコリ、コリコリコリ・・・

「いはぁあああ・・いはぁああ・・・」

 

その左上7番の治療は2時間に及んだ。ほぼ叫び通しだった彩は、声が枯れてしまった。次の日も日勤だった彩は、勤務が終わると、高島に

「今日も治療に来るようにって、第2歯科から連絡入ってるわよ」

と言い渡され、しぶしぶ地下に足を向けた。根管治療の続きと、左下6番のインレー脱離痕の再治療・・・ここも大きく虫歯が進行していたが、抜髄は免れた・・・。

2週間の治療の末、左上7番にはクラウンが、左下6番には大きなインレーが装着された。

「さて・・他はどうしますか?」

「他、ですか?」

「他の、治療済みの歯・・だいたい5年くらいは経ってると思うんですが、かなりのところがまた虫歯になってしまってますね。そろそろ痛み出したりもすると思いますよ。」

「でも・・い、今はいいです・・」

なんとなく及び腰で、彩は答えた。

「ま、いつでも駆け込んで来られますから、気になったら来て下さい。まあ、痛み出してからでは治療が辛いってことはわかったでしょうから。」

 

その場は治療を受けずに済ませたものの、結局、その後1年間、彩はほぼずっと、第2歯科に通い続けることになった。言われたとおり、シクシクと痛み出したり、詰め物が取れたり・・・常に何かの歯のトラブルを抱えている状態であった。ようやくトラブルから解放されたのは、すべての奥歯が大きなインレーとクラウンに置き換わってからであった。