「あー、ぁはー」
「もうちょっとだからねー、がんばろうねー」
「あーぅうー」
靖子は、5歳になる娘の朱里の治療に付き添っていた。下の前歯が抜けそうだからと連れてきた歯科医で、生えたばかりの下の6番2本の虫歯を指摘され、治療することになったのだ。
幼稚園に入ってからは歯の仕上げ磨きもしなくなったので気付かなかったが、
どうやらかなり大きな虫歯になっていたらしい。朱里はかなり歯を削られ、痛そうな泣き声を上げていた。
「はい、今日は削るのはおしまい。あとは型を取って、仮の詰め物をして終わりです。次回、詰め物が入ります。反対側は次に治療しますね。もう少し深いようですが、たぶん同じ治療になりますから。がんばろうね、朱里ちゃん。」
歯科医、黒川が朱里に話しかけた。朱里も素直に頷いている。黒川は、子供の扱いが上手いと近所で評判なのだ。
その日の夕飯。
「あかりちゃん、左側の歯であんまり噛んじゃダメよ。詰めてあるの取れちゃうから。」
靖子が注意すると、夫の隆志が言った。
「なんだ、歯医者行ったのか?もう虫歯か?こんなちっちゃいのに?」
「そうなのよ・・生えたばっかりなのに大人の歯が虫歯なんですって。でも頑張ったもんね。」
朱里がこくこくと頷く。
「でもまた行かないといけないの・・痛かった・・やだな・・」
「そうか。ま、オトナの試練ってやつだ。頑張れよ。」
すると、朱里が突然言った。
「お父さんもお母さんもムシバあるの?」
「ははは、昔はあったけど、今はないな、ただ、お父さんは自転車から落ちて前歯が折れちゃったからな、ほら。」
隆志は朱里に口を開けて見せていた。前歯の差し歯を、朱里は痛そうな顔をして見ている。
一方、靖子はドキリとしていた。靖子は取り立てて歯が弱いというわけではなかったが・・・タイミング悪く、実は先週から痛む歯があった。さりげなく、食器を片付けに台所に立つ。
「ねー、お母さんはー」
食卓から朱里が聞く声に、
「ないわよ。朱里が生まれる前に治したんだから」
と答える。生まれる前に治したのは本当だった。ただし、それから一度も歯医者には行っていないが・・・
その夜。台所で痛み止めを飲んでいるところへ隆志がやってきた。
「どうした。どこか悪いのか」
「ん・・別に。ちょっと、歯が痛くて」
左ほほをさすりながら答える。
「なんだ、お前もか。朱里には虫歯はないとか言ってたくせに。ついでに治してもらって来いよ」
「ん・・・そのうちね・・・でも朱里には知られたくないわ」
「はは、見栄っ張りだな」
隆志は笑うと、そのまま寝室に入っていった。
さて、次の朱里の治療の日。診察室に入った朱里は、なかなか治療台に座ろうとしない。
「やだ・・・痛いのやだ・・・」
見かねて黒川がやってきた。
「どうしたのかな、朱里ちゃん。」
「痛いからイヤ・・」
「困ったなあ、このあいだは頑張ったじゃない」
「でも・・・」
「朱里、ちゃんと治してもらわないとダメじゃないの。お父さんも言ってたでしょ。」
「お母さんも痛いのがんばった?」
「そりゃそうよ・・」
すると突然、黒川が口を挟んだ。
「そうだ、お母さん。お手本に座って見せて下さい。これが一番効果があるんです」
「えっ」
不意を突かれ、靖子は声が上ずってしまった。
「朱里ちゃん、お母さん先に見るからね。そしたら朱里ちゃんも座る?」
朱里は頷いた。
「じゃ、お母さんどうぞ」
靖子は固まった。しかし、どうにも断れない状況で、靖子はしぶしぶ・・治療台に体を預けた。
「はい、あーん・・・」
まあ、朱里に治療を受けさせるための演技だけだろうと、靖子は口を開けた。
しかし。左下の大きく穴の開いた虫歯を、歯科医が見逃せるわけがなかった。
「あれ、お母さん。虫歯・・・」
靖子はびくっとした。とっさに口を閉じようとしたが、黒川の指が下あごを押さえていて、できなかった。
「これはかなり進んでるな・・痛むんじゃないですか?」
真剣な表情で尋ねてくる黒川に、靖子はつい、
「ええ・・少し・・・」
と言ってしまった。
「早目に治したほうがいいですね・・・ふ・・ん・・他にもあるようですね・・・」
黒川は、靖子の口の中をさらに覗き込んでいる。
「どうしますか。治療・・しますか?」
心の準備ができていないので、
「いえ・・」
と言いかけて、ふと、横目で左に立つ朱里を見ると、厳しい表情でこちらを睨んでいる。子供の前で治療は嫌ですとは言えない。
「・・・お願いします」
すぐに衛生士にエプロンをかけられ、新しくカルテが用意された。
「朱里ちゃん。朱里ちゃんのお母さん、虫歯が見つかったから、先に治療するね。待っててね。」
黒川が、しゃがんで朱里に話しかけている。朱里はうなづき、
「よろしくおねがいします」
と頭を下げた。黒川も衛生士も苦笑した。
「では最初に全部見せていただきますね」
すぐに治療台から降りるつもりで膝の上に置いていたハンドバッグからハンカチを取り出して、バッグを荷物置きに置くと、治療台が倒され、カン、とライトが点灯する。いくつになっても、歯医者というのは緊張するわ・・・削られるんじゃないとわかっていても、隠れた何かを見つけられるんじゃないかしらという、言いようのない不安が・・・
黒川の手のミラーが近付いてくるのを見て、靖子は目を閉じ、口を大きく開けた。
「右上から・・7番○、6番○・・5番・・」
黒川がミラーをあちこちに当てて見ているのがわかった。虫歯かしら・・・特にしみたりもしないのだけれど・・・靖子は体を固くして、歯科医の判断を待った。
「C2かな。4番斜線、3,2,1番斜線、左行って・・1番・・」
再び、黒川の声が止まった。ミラーが歯の裏に当てられている・・・と、ゴム手袋の指が靖子の上唇に触れる。そのまま唇がめくり上げられ、カチャリ、という音がしたと思ったら、何か尖ったものが、歯の間に食い込んできた。
「ぁぐっ」
痛みと言うよりは違和感に、靖子は思わず喉から声を出した。
「これもC2だな、2番もそのままC2。」
黒川の声が虫歯を告げた。前歯・・前歯が虫歯なの?靖子は、歯の弱い友達の差し歯を思い出して、ぞっとしていた。高校時代にすでに前歯が虫歯で差し歯になってしまったその友人は、先日会ったときは、差し歯と歯茎の境が黒ずんで汚くなっており、靖子は心の中で、自分の前歯は綺麗でよかった、と思っていたのである。それなのに・・靖子は手のハンカチをぎゅっと握り締めた。
検診はまだ続く。
「3番斜線・・4番・・斜線、5番C1、6番○、7番・・・C2。」
痛む歯は左下だというのに、そこにたどり着く前に、すでにずいぶん虫歯を宣告された気がする。歯はそんなに悪いほうではないと思っていたのだけれど・・・靖子は気持ちが沈んでいくのを感じていた。
「左下行きます・・7番○、6番○・・5番C3。4番、C2。3番から右下3・・待って、2まで斜線。」
黒川はそう言うと、ミラーを歯列の外側にすべらせ、左手に持ち替えて下唇を外側に開くと、右手に探針を取り、右下3番と4番の間をつついた。
「ぁいっ」
鋭く突き抜けるような痛みがあった。
「3番C2、4番もC2です。5番斜線、6番○の7番斜線。以上です」
ようやくミラーが口腔内から抜かれたが、口の中には消毒薬の匂いが強く残った。治療台が起こされる。口の中の消毒薬の匂いが気になって、靖子は、ハンカチを握った手を鼻に当て、軽く鼻をすすった。
「穂坂・・靖子さん」
黒川が、カルテを手に指で何かを数えている。
「要治療の虫歯が・・9本ですね。しかも、ほとんどが少し進行しています」
朱里に対するときよりも、厳しい声と表情だ。
「9本も・・・」
「前回診察を受けたのはいつですか」
「朱里が生まれる前なので・・・5年・・いえ、6年ほど前です」
「それはまたずいぶん前ですね・・まあ仕方ないでしょう。治療は少し長くかかりますが・・がんばりましょう」
「はい・・」
「今日から治療に入っていいですね?早いほうがいいと思うのですが」
「・・よろしくお願いします」
椅子を貰って、すぐ横で座って靖子を見ている朱里の視線が気になって、靖子は目を伏せた。衛生士が朱里に、
「朱里ちゃん、もう少し待っててね。お母さん、虫歯があったから、治さないといけないの。」
「すぐ終わる?」
「うーん、ちょっとたくさんあったからね、ちょっと時間がかかるわ。」
と言っているのを聞いて、靖子はいたたまれない思いであった。いつも、甘いものをそんなに食べちゃいけません、歯磨きしなさい、虫歯になったらどうするの、と偉そうに朱里に言い聞かせているというのに・・・
別の衛生士が、トレイに麻酔用のシリンジ、探針やピンセットなどを手際よく並べていく。
「左下の虫歯はかなり深いですから、麻酔をしますね。削っていってひどいようなら、神経を抜いて根の治療もしますから。体調は大丈夫ですか」
「はい」
根の治療・・・子供のころに一度受けて、ひどく痛かったような記憶がある。子供の見ている前で、あまりみっともない姿は見せられない。靖子は深くため息をついた。
「では始めますね」
・・・靖子は観念して、ゆっくりと倒れていく治療台に体を預けた。
「少しちくっとしますよ・・」
前もって言われたものの、やはり針が刺さる瞬間は、びくっとしてしまった。思ったよりも・・痛い。
「んー」
思わず呻き声が出てしまった。
「もう一ヶ所いきますね」
「ぁ、んー」
初めて見る「はにちゅうしゃ」と、母親の上げる痛そうな声に、朱里は少し怯えていた。が、少し腹も立てていた。お母さんも虫歯あるんじゃない。あかりには虫歯ないって嘘ついて。朱里は、母親の治療の様子をじっと見届けることにした。
「朱里ちゃん、向こうのお部屋で待ってる?」
「ううん、ここにいる」
麻酔が効くのを待つ間、倒されたままの治療台から顔を横に向けて朱里を見ると、朱里はじっとこちらを見ていた。靖子は、すこしばつが悪そうに微笑んでみせると、また上を向いた。
「そろそろ効いたかな・・」
黒川と衛生士が定位置に付く。いよいよ治療だ。
タービンが近付いてきたのを見て、靖子は目を閉じて口を開けた。
その口の中にミラー、バキューム、タービンとエアーシリンジが突っ込まれ、それぞれに音を立て始める。
ヒュィーン、スココココオオ、シュッ、シュッ、ヒュィー、チュィー、チュイー・・・
朱里は、母親が目をぎゅっと閉じ、口の中にいろいろな器具を突っ込まれている姿を食い入るように見つめていた。
やがて・・
「ぁ、あ、ぁああ、んあ・・」
といううめき声が靖子の口から漏れ始めた。朱里が見ている、と思い、必死に我慢していたのだが、治療の痛みは耐えがたかった。
「もう少しですからねー、我慢してください」
「朱里ちゃんも見てますよー、頑張ってー」
黒川と衛生士が口々にはげますが、痛みはさらに強くなるばかりであった。
チュイー、チュイー、チュイィイイイイイイ
「ぁ、あああ、があ、ぁあ、ああああん」
ぎゅっと閉じた目尻には、少し涙も浮かんでいる。
「そんなに痛むのは放って置いたご自分の責任ですからねー、あー、ほら、口閉じないで・・動かない!」
黒川は、小児治療のときとは打って変わったような冷徹さであった。黒川は、子供の虫歯は子供に非はなく、むしろ親の責任であるから子供には優しく治療すべきだが、大人の虫歯は自分の責任なので、優しくする必要はないと考えていたのである。
「ぁあ、あはああ、ぃいい、ぃ、いはぁああ」
靖子は、もはや朱里が見ていることを考える余裕もなく、ただ痛みに声を上げていた。
キュウウウウウゥゥゥ、
その後しばらく経って、ようやくタービンの音がやみ、靖子は痛みから解放された。口の中から器具も抜かれる。治療台が起こされ、靖子は涙と唾液をハンカチで拭い、よろよろと口をゆすいだ。左ほほに手をあて、顔をしかめる。ふと、横にいる朱里のことを思い出し、ぎこちなく娘に向かって微笑む。麻酔と痛みに耐えた後なせいで、痛々しい微笑であった。
治療台に再び頭を預けると、手を洗った黒川が戻ってきた。
「虫歯が深くて、まだ取りきれない虫歯が残っているので、もう少し削ります。麻酔、追加しますか」
淡々と尋ねる。
「あ・・お願いします・・」
まだ続くなんて・・・靖子は絶望的になりながら、トレイにセットされる麻酔のシリンジを眺めていた。
治療台が倒され、麻酔が追加された。麻酔はそれほど痛くなかったが・・横から衛生士がやって来て言った。
「穂坂さん、動いたり口を閉じたりして危ないので、口を開ける器具を入れますね」
えっ・・何それ・・
衛生士が、手に持っている見慣れないプラスチックのものを
「はい、大きく口開けてください・・」
と言うと同時に、右の奥歯の間に挿入した。
「あがっ」
口が閉じられない状態になった。とっさにきょろきょろすると、朱里と目が合った。口をあんぐり開けた状態の靖子を、朱里は少し不安そうに眺めている。
「もういいでしょう」
衛生士が靖子の顔を上に向けさせ、ライトを点灯した。
「もう少しですからね・・頑張って」
ヒュィイイイイ
タービンが音を立てて、再び靖子の口腔内に侵入してきた。
キュィイイイイイ、キュィイイイイイ、キュイ、キュイ、チュィイイイイイ
タービンはかなりの勢いで、歯を削っていく。
すぐに終わると思ったのに・・しかし、追加された麻酔のせいか、痛みはさっきほどではなかった。
ハンカチを握りしめ、目をぎゅっと閉じて、耐えた。
一方朱里は、母親が声を上げて痛がりながら治療を受ける姿が強烈に印象に残った。今も、母親は眉間に深く皺をよせ、顔をしかめて痛みに耐えているようであった。
数分たって、ようやくタービンの音がやんだ。
「はい、削るのは終わりです。一度口ゆすいで下さい」
靖子は衛生士にバイトブロックを外してもらった後、治療台を起こしてもらい、口をゆすぎながら舌で歯を・・・歯のあった場所を・・・無意識にさぐった。
えっ・・歯が・・・ない?
たしかに歯茎の上に少しの引っ掛かりを感じるものの、歯列を内側からなぞると、明らかにその部分だけ歯がなかった。
口をゆすぎながら舌でもぞもぞしている靖子に気付いて、黒川が言った。
「虫歯はかなりひどくて、歯全体がやられていましたので、歯冠部・・歯茎の上の部分はほとんど残っていません。見ますか」
靖子に手鏡を渡す。
「はい、あーん」
言われるままにおそるおそる口を開けると、黒川がミラーで唇の端を左下に開き、治療中の左下5番があらわになった。
歯は歯茎とほぼ変わらない高さになり、中は汚く穴が開いているだけだった。
靖子は、思わず眉をひそめた。
「根の中に神経が通ってるんですが、その神経も侵されているので。これからこの穴の中の、根の掃除をします。」
再び治療台が倒され、靖子はまたバイトブロックを咬まされた。
黒川が、針のようなものを右手に持って、左手のミラーで、歯列の外側・・頬の内側をぐいっと押し広げた。
「ちょっと痛むかもしれませんが、我慢して下さいね」
衛生士が言った瞬間、顎に響くような痛みが走った。
「んぁはあっ!」
心構えができていなかったので、思わず思い切り叫び声を上げる。実は靖子は、痛みに弱いのだった。
「我慢してくださーい」
コリコリ、コリコリ・・・
「ぁあああっ、ぁはん、ぁはんっ・・」
コリコリコリ・・
「ぁっ・・はぁあ、んはぁあ・・・」
冷や汗がにじむほどの痛みに、靖子はただ叫ぶしかなかった。気がつくと、目にも涙が溢れていた。
叫びすぎて声がかすれてきたころ、ようやく
「はい、今日はこれでいいでしょう」
根管の清掃が終わり、薬が詰められ、仮封をして治療が終わった。
「次回様子を見て・・綺麗になっていたら次に進みましょう。まだ汚いようなら、同じ治療をします。」
「はい・・はぁ」
思わずため息をついてしまった靖子に、黒川が言った。
「もっと早く治療していれば、こんな痛い思いはしなかったんですよ。」
「はい・・申し訳ありません・・」
「いえ、謝ることはないです、ご自身が辛いだけですから」
まだ痛みの残る左頬に手を当てて、靖子は治療台から降りた。
「つぎ・・朱里ちゃん・・」
「い・・イヤ・・・」
無理もない。母親が痛みに泣き叫んでいる姿を見た朱里は、怯えてしまっている。
「うーん、困ったなあ、でも、ちりょうしないと、お母さんみたいに、いたーくなっちゃうよ・・・」
衛生士も、必死に説得するが、朱里は首を振るばかりだった。
「あまり拘束治療とかしたくないんですけどねぇ・・」
黒川が、困ったように靖子を見る。
靖子も、朱里が縛り付けられて治療されるのは見たくなかった。さらに、自分も治療でひどく疲れていた。
「では・・今日のところは家に帰って・・説得します・・・」
「そうですか、では・・また明後日に予約入れておきましょう。お母さんも。次回はお母さんが後にしましょう・・・」
「はい、すみません」
靖子は、痛み止めを貰い、朱里をつれて、帰宅した。
さて、2日後。靖子は・・・歯医者に行かなかった。
あの痛い治療を思い出すと、どうしても足が向かなかったのだ。
当然、朱里も連れて行かなかった。
「おかあさん、きょう、はいしゃさんのひ?」
と朱里が聞いてきたが、朱里を連れて行くとなると、自分も治療を受けなければならない。
いいわ、もうあの歯医者に行くのはやめよう・・・
「行かなくていいわ。」
こうして、靖子の左下5番は、根管治療の途中で放置されることとなった。その他の未処置の虫歯と共に・・。
「やったー!」
喜んだ朱里の6番も、右下は未処置のまま、左下は削られて治療途中のまま、放置されてしまったのである。
それから2ヶ月後。
日曜の朝、3人で食事をしていると、朱里が泣き出した。
「どうした朱里。」
「どうしたの?」
口々に聞くと、朱里は、
「はがいたい・・・」
と、消え入りそうな声で答えた。靖子はドキリとした。
「どうした。あかり、虫歯治したんじゃないのか?」
隆志に見られ、靖子は目を伏せた。
「あかりが・・行きたくないって言うから・・・」
「だからって辞めちゃだめだろう」
「えー、いたいよぅ・・・」
朱里が本格的に泣き出した。
「お父さんに見せてごらん」
朱里は椅子を立って、隆志のところに行き、口を開けた。
「ん・・あー、痛そうだなあ、たしかに。」
朱里の、右下6番には、目で見て分かるような茶色い穴が開いていたのだ。
「・・ん?こっち?どっちが痛い?ずいぶん大きい穴だな・・食べかすが詰まっちゃってるよ」
が、左下に目をやると、さらに大きな穴がぽっかりと開いていた。インレー治療のために、齲蝕部分を削り、仮封をしていたのが取れてしまった後である。
「靖子・・爪楊枝持ってきて」
靖子は、言われたとおり、爪楊枝を持ってきて、一緒に朱里の口の中を覗き込んだ。素人の目で見てもひどい虫歯に、靖子の胸がちくりと痛んだ。
「あー、あはぁー、いひゃーいー」
隆志が、爪楊枝で食べかすをほじくり出そうとするが、うまくできない。朱里は泣き叫んだ。
「取れそうなんだけどなあ」
「いーひゃーーーあーーーーーー」
「ちょっと、かわいそうよ」
思わず横から口を出した靖子に、隆志が言った。
「靖子・・おまえ、口が臭いぞ」
靖子は、はっ、と口を押さえた。
「そんな・・朝だからよ」
「いや、そういうんじゃなくて、もっと。」
ぷい、と立ってダイニングテーブルを片付けに入った靖子に、隆志は続けた。
「そういえば、おまえこそ、歯が痛いとか言ってたのどうした。」
「もう痛くないわよ、治してもらったんだから」
「お母さんねえ、むしば、たくさんあるんだって。はいしゃさんで、いたーいって泣いたんだよ」
朱里が、口をはさんだ。
「ちょ、ちょっと、あかり。」
靖子はあわてた。が、遅かった。靖子が痛みに弱いのを知っている隆志が不審そうな目で靖子を見る。
「まさか、それで行くのやめたのか?たくさんあるなら、まだ治療中なはずだよな?でも通ってないもんな?」
「う・・」
靖子は、口をつぐんだ。
「まあいい。でも、とにかく朱里は歯医者に連れて行ってやらないと。でも日曜だしな・・ちょっと遠いけど、大学病院行くか・・やってるだろ・・あ、桜井に聞いてみよう。」
桜井は、隆志と靖子と同じ部署で働いていた、靖子の2年後輩の女の子である。突然、歯科衛生士になると言って会社を辞めて専門学校に通い出し、卒業後は大学病院の歯科で働いていたはずである。新入社員時に靖子が面倒を見ていたこともあって、仲が良く、二人の家にも何度か遊びに来たことがあった。朱里が生まれてからは会ってないが・・・
電話をかけている隆志の声に、靖子は不安な思いで耳を澄ました。
「・・そうなんだよ。で、大学病院なら開いてるかなって。・・え、本当?助かるよ。・・・XXスーパーの裏?ああ、何度か行ったからわかるよ。じゃあ。」
電話を切った隆志が、すっきりした顔で戻ってきた。
「桜井、大学病院で知り合った歯医者と結婚して、旦那は今はXXスーパーの裏で開業してるらしい。自宅兼ねてるから、今から診てくれるって。よかったな朱里。」
「えー、はいしゃさん・・・」
朱里が嫌そうな顔をした。靖子も、隆志の口から嫌な提案が出てくるのではないかと不安だった。
「虫歯は歯医者さん行かないと治らないんだよ、朱里。靖子も一緒に行くよな。」
来た!
「私は・・掃除もしなくちゃいけないし・・買い物も・・」
「これから通うのに連れて行くのは靖子だし、買い物はXXスーパーでできるだろ。それに靖子も虫歯があるんだし。」
だから嫌なんじゃないの・・・靖子は思ったが、朱里もじっと見ているので、嫌とも言い張りにくい。
「そ、そうね・・でも、私は付き添いだけでいいわ」
30分後、3人は今井歯科クリニック、の受付にいた。
「悪いな桜井・・じゃないか、今井さんか」
「お休みのところ、ごめんなさいね」
「呼び方はなんでもいいですよ。ご無沙汰してます、靖子さんも。」
桜井美奈子は、昔と変わらない明るい笑顔で挨拶した。夫の今井も優しそうだ。
「あかりちゃん、こんにちは。歯が痛いんだって?」
車の中でまた痛みが強くなった朱里は、泣きながら頷いた。
「じゃ、きちんと治そうね・・穂坂さんも診ましょうか?」
美奈子が、いたずらっぽく笑う。
「俺はまあ会社で毎年検診あるし・・でも、靖子が虫歯が痛むらしい。」
「ちょっと!」
靖子はきっ、と隆志を見た。
「あら・・でも、そうですね、主婦の虫歯ってけっこう問題なんですよ、あまり検診もないですから。診ましょうか?靖子さん」
「私は・・またの機会でいいわ」
「ま、その件は後で。とにかく朱里ちゃんの治療に入りましょう」
全員、診察室へと移動した。
「お父さんとお母さんはそちらへどうぞ。朱里ちゃんはここに座ろうね。お父さんもお母さんも後ろに居るからね」
今井が、うまく朱里を治療ユニットに座らせた。
「一応、大学病院では小児歯科にしばらく居たからお子さんの治療は慣れてますよ。大丈夫です。」
美奈子が、不安そうな両親に説明する。
「じゃ、診せてもらうね、おっきい口あけてくれるかなー、あーん」
治療台が倒され、ライトが朱里の小さな口を照らし出した。美奈子がカルテを持って横につく。
「あー・・これ、治療途中でしたか?」
今井が、靖子を振り向く。
「は、はい・・すみません」
「・・そうですか。ちょっと進んじゃったねぇ・・食べかすがつまって痛いかな」
そう言って、朱里の大きく開いた6番の穴から、探針でパンのかけらをほじくり出した。
「ぁああんっ」
朱里の体がビクン、とはね、靖子も胸が痛んだ。
「ごめんねー、痛かったねー。でも楽になったかな?」
朱里が、こくり、と頷く。
「でもちゃんと治さないとダメだよ、また何かつまっちゃうと痛いからね」
朱里がまた頷く。たしかに、扱いは上手いようだ。
「じゃあ・・うーん、とりあえず全部診よう。右上から行きます、6番C2。E○、DがCO、Cから左上Cまで斜線、DはCO、E○、6番C1。」
いつの間にか、上にも6歳臼歯が生えてきていたらしい。でも、もう虫歯に・・靖子は、ごめんね、と心で思った。
「左下行って、6番C3、E○、D○、C、斜線、B要注意、1斜線、1斜線、B要注意、C斜線、D○、E○、6番・・C2です。」
「よ、要注意ってなんですか」
隆志が、あわてたように聞く。
「いえ、もうすぐ抜けるってことです。ここは心配いりません」
「ああ、そうですか、良かった。」
ほっとしたように言う隆志に、美奈子が言った。
「あまり良くありません。6番・・これは最初に生える奥歯で永久歯・・大人の歯なんですが、これが4本とも、全部虫歯になってしまってます。」
「えっ・・大人の歯が全部・・」
「今、痛いのもそれです。気をつけてあげてくださいね」
靖子は黙ってうつむいた。
「治療ですが・・まだ小さいので、痛む左下は少し大きいですが、神経を残すようにします。麻酔しますが・・アレルギーとかはないですか?」
「大丈夫・・だと思います」
「じゃ、シンマ用意して」
朱里の治療が始まった。
用意されたシリンジを見て、朱里はおびえた。
お母さんが痛がってた「はにちゅうしゃ」だ!
「大丈夫だよー、先にちょっとお薬塗るねー、おくちあけててねー」
表面麻酔が塗りこまれる。
バナナのにおいがする・・・
そう思っている間に、注射が近付いてきた。思わず目を閉じる。
「はい、いいよー、頑張ったねー、おくちゆすいでね」
何かされた気はするが、痛みはなかったので、朱里はホッとした。頑張ったと言われ、少し誇らしい。
お母さん、よわむしね。
朱里は、言われるままに口を濯ぎ、またおとなしく治療台に戻った。
「じゃあ、削るからね、また頑張ろうね」
ヒュィイイイイイイ
チュイ、チュイ、チュィイイイイイイ
スコココ、スココ・・
タービンの音は長く続いた。朱里はずっとおとなしく目を閉じて、口を開けていたが、むしろ、後ろで聞いている靖子の方が、2ヶ月前の記憶がよみがえってきて、痛そうに顔をしかめている。
キュィ、キュィイイイイイ、チュチュチュィイイイイン
「あ、ぁあ・・」
かすかに、朱里が声を上げた。
「痛いかなー、ちょっとだから頑張ろうねー」
「ぁ、ぁあん・・」
「もう終わるよー、はい、5、4、3、2・・1・・・ハイ終わり。よく頑張ったねー、えらい、えらい。」
治療台が起こされ、口をゆすいだ朱里は、ちょっと痛かったが、褒められて満足していた。
「あとお薬塗って、型取るからね、もういっかいあーんしよう」
朱里は、素直に従った。薬がちょっと臭かったが・・痛くもなかったので、安心した。
「あかりちゃん、もうちょっと頑張れるかな?」
今井に聞かれ、朱里は、得意げに頷いた。
「上の歯もね、ちょこっと虫歯になってるから治そうか。ちっちゃいからね、すぐ終わるよ。」
朱里は一瞬ひるんだが、すぐ終わる、と聞いて、再び口を開けた。
キュィイイイイイ、キュィ、キュィ、キュィイイイイイイン
「すぐ終わるからねー、もうちょっとー、はい、終わり。」
言われたとおり、削るのもすぐ終わり、その後のレジン充填も、あっさり終わった。
「はーい頑張ったねー。上の歯はもう治っちゃったよ。次は下の歯も治るからね。」
治療台が起こされ、朱里は元気に治療台を降り、両親のところへ駆け寄った。
「あかり、頑張ったよ!」
「よーし、えらかった。」
笑顔の隆志の横で、靖子は顔を強張らせていた。
「じゃ、次は靖子かな」
「えっ、そんな・・」
皆に見つめられて、靖子は戸惑った。嫌・・特に朱里も見てるなんて・・・しかも桜井さんも・・・
「桜井も言ってやってくれ」
と隆志が言ったが、
「患者さんに強制はできないので・・」
と、美奈子はあっさり引いてから、続けた。
「穂坂さんと朱里ちゃん、お買い物行って来たら?」
靖子の心情を察して言ったのだ。
「おかあさん、歯医者さん、怖くないよ」
朱里に言われ、靖子はもう嫌とは言えなくなった。
「じゃ・・でもあなた、お買い物行ってて。買うものはコレね」
と、靖子はメモを渡して、夫と娘を送り出すと、意を決して、治療台に座った。
「えーと、何か気になるところはありますか」
今井が聞いた。
「あの・・恥ずかしいんですが実は一度途中で治療をやめてしまって・・」
「いつですか」
「2ヶ月前・・・たぶん虫歯もけっこうあって」
口に手を当てて話す靖子に、今井はさらに聞いた。
「お口の臭いがありますか?」
「あ、わかりません・・でも、さっき夫にそう言われたものですから」
「とりあえず、診てみましょう」
靖子はぎゅっと手を握りしめ、倒れていく治療台に体を預けた。
ライトがまぶしい。
口を開けた瞬間、ライトを調整していた美奈子が、
「あぁ・・」
と声を上げたのが聞こえた。
「い、痛かったんじゃないですか?」
美奈子に心配そうに聞かれ、恥ずかしさで口を閉じそうになったが、すでにミラーが入っているので、黙って首を振った。
「うーん、たしかにけっこう多いなあ・・・とにかく、右上からいきます・・7番○・・6番・・○・・だけどインレーが取れかかってる、C2。5番C2。4,3,2番斜線、1番C1、左行って・・1番C2、2番C2、3番4番斜線、5番C2、6番○、7番C2。」
あら・・前歯の虫歯・・2本じゃなかったかしら・・・・増えちゃったのかしら・・・靖子は不安な気持ちで聞いていた。
「左下、7番○、6番○・・だけど2次カリ怪しいな、5番がC・・ここですね、治療途中だったのは」
靖子は、口を開けたまま目で頷いた。
「痛みはないですか」
「いいへ」
「うーん、Perっちゃってるかもしれないな、あとでレントゲン撮ろう、4番C2。3番から右下2番まで斜線、3番C2、4番C2、5番C1、6番○。7番斜線。以上です。レントゲン撮ってもらいましょう。」
治療台が起こされ、
「こちらへどうぞ」
と、美奈子に先導されてレントゲン室へ向かう。なんとなく気まずく、靖子はうつむいたままだった。
治療台に戻ると、今井がカルテを見ながら説明を始めた。
「えーと、まず・・虫歯がですね、」
「たくさん・・ありますよね」
恥ずかしさに、靖子は思わず声を出した。
「そうですね、えーと・・12本。もしかすると治療済みの歯の下の虫歯がもう少しあるかもしれません」
たしかこの間は・・少なくとも二桁ではなかったはず・・・靖子はショックだった。思わず目をつぶる。
「どうかしましたか?」
「あの・・虫歯たくさんあって・・恥ずかしいです」
「たくさんあるのは大丈夫ですよ。でもちゃんと治さないのは恥ずかしいですから、頑張りましょうね」
横から美奈子に言われ、靖子は、さらにいたたまれない気分になった。かつて、いろいろ教えた美奈子に、口の中を見られて・・しかもこんな虫歯の・・しかし、それだけではなかった。
「他に少し質問させて下さい。口の中がネバつくとか、歯茎から血が出るとか、そういったことはないですか?」
今井の質問の意図がよくわからず、靖子はおそるおそる答えた。
「そういえば・・朝とか・・ちょっと口の中は粘っこいですけど・・・血は特には。」
「そうですか。実はですね、全体的に・・軽い歯周病がみられます。」
「歯周病・・」
「昔でいう、歯槽膿漏です」
しそうのうろう!靖子は手が震え出すのを感じた。
「それほど進行してはいないと思いますから、大丈夫ですよ。少し歯垢や歯石が多いですから、スケーリングして・・あと、歯磨きの指導を受けて下さい。それで改善するはずです。」
はっ、と思わず美奈子の方を見ると、美奈子は笑顔で答えた。
「大丈夫ですよ、スケーリングでちゃんと綺麗にすれば、ネバつきも口臭もだいぶん良くなります。」
・・今は汚いってことなのね・・・口も臭い、と言われたのと同じだ。
靖子は消えてしまいたいほど恥ずかしかった。
黙り込んでいると、レントゲンが出来上がってきた。
「そうですね・・P・・歯周病のほうはそれほど心配要りません。ただ虫歯がね・・詰め物の下の虫歯がやはりもう1本あるのと・・問題の左下5番、治療途中だった歯ですが・・・根っこの先に膿が溜まってしまっています。これは放置すると大変なので、きっちり治して行きましょう。たくさん治さなければなりませんが、きちんと通えますね?」
「は・・はい。よろしくお願いします」
優しいようで迫ってくるような今井の問いかけに、つい、はいと言ってしまった。
美奈子が、それを聞いて、治療の準備に入った。トレイに、カチャカチャといろいろなものを並べていく。あの、痛かった最後の治療のときの、針のようなものも・・・
「まずは5番からですが・・・根の掃除をしていきますが・・・最悪のケース、抜かなければいけないかもしれません。」
もともと、ほとんど残っていないのだ。靖子には、あまり深刻なことには思えなかった。
「はい。」
「その場合でも、隣の歯とつなげて歯を入れますから、大丈夫、入れ歯にはなりません。」
「では、始めましょうか」
治療台が倒されていく。
「神経はすでに抜かれている歯なので、麻酔はしません。が、痛かったら言って下さい。」
今井が手にしたファイルが近付いてくるのが見え、靖子は体を硬くした。
コリコリ、コリコリ・・・
「んぁー」
痛みは無いが、音と違和感に、靖子は思わず声を出した。
「痛みますか?」
美奈子が心配そうに聞いてくれるのがまた恥ずかしい。
「い、いへ」
「頑張ってくださいねー」
コリコリ、コリコリコリ・・・
「あ、ぁは・・んは・・」
不快感で思わず声が出てしまう。靖子は、目を閉じ、眉間にしわを寄せて耐えた。
「シリンジ」
「はい」
「バキューム」
「ペーパーポイント」
意味不明な会話が交わされ、いろいろなものが歯に入れられたりするのがわかる。靖子は、胸の上のハンカチを握りしめ、ただただ処置が終わるのを祈った。
「はい、いったん口濯いでください」
治療台が起こされ、靖子は口をゆすいだ。
「とりあえず、根の中をできるだけ綺麗にして薬を詰めてあります。しばらく様子を見ましょう。」
「はい」
「次は・・どこ治そうかな・・まだ平気ですよね?」
これで帰れるかと思った靖子は、がっかりした。
「少し・・疲れました」
じゃあやめましょう、という言葉を期待して、靖子は言った。
「じゃあ、軽く済むところで・・13本ありますからね。治していかないと。後回しにして目立っちゃうと困るから、前歯治しましょう。2番から行こうかな」
「・・はい。」
「前歯は痛みが出やすいので、麻酔しましょう。」
痛いの!靖子は怯えた。
「靖子さん、痛いの弱かったですよね」
美奈子が横から言う。靖子は、ハンカチを鼻に当てて、頷いた。
「じゃあ、表面麻酔もして、シンマ。ただ、多少の痛みは、進行した虫歯の場合仕方ないですよ。頑張って下さい。」
今井に釘をさされ、靖子はため息をついた。
表面麻酔のために、麻酔の注射は痛みをほとんど感じなかった。靖子はホッとした。この先生、前の人より上手いんじゃないかしら・・・
今井の腕に期待して、靖子は口を開け、目を閉じた。
チュィイイイイイイイ・・・・
裏側から、前歯が削られていく。
ああ・・前歯が・・・痛みへの不安で、前歯が虫歯だというショックを忘れていたのだった。
キュイ、キュイ、キュィイイイイイイ、キュィイイイイイイイン
タービンは、勢い良く音を立てている。
ああ・・そんなに削らないで・・・と思った瞬間、タービンが止まった。
ヒュゥウウウゥゥ・・
あら、早かったわ。
と思ったのもつかの間、
「次、前から削っていきます」
と言い渡された。
唇を少しめくられ、再びタービンが音を立て始めた。
キュィイイイ、チュィイイイイ、チュィイイイイイン!!
う・・い・・イタ・・・
初めは振動だけだったのが、たしかな痛みが生じてきた。
「ぃ・・ぃあ・・あああ・・」
「痛みますかー、ちょっと我慢して・・」
「ぁあ・・あ、ああっ、あっあっ」
「あ、動かないで・・・」
ヒュゥウウゥゥ。
タービンが止められ、美奈子が席を立った。
靖子は、やっと終わったわ・・と思ったが、治療台は起こされる気配が無い。
美奈子が戻ってきた。
「失礼します。これつけさせて下さい。」
と、靖子の唇に、アングルワイダーを装着した。
何コレ!は、恥ずかしい!!
と思ったが、二人は何事もなかったかのように治療を再開した。
チュィイイイイイイイ、チュィン、チュイン、チュィイイイインンン
「いはぁっ!いはい!いはい!いぁああああ」
「頑張ってくださいねー、もうちょっとですからねー、我慢してくださーい」
美奈子が声をかける。首を動かしそうになるので、仕方なく顎を押さえつける。
靖子さん・・ごめんなさい・・・
そこへ、買い物から隆志と朱里が戻ってきた。
「お母さん、頑張ってるかなー」
「いがぁああ、ああ、あはあぁああああっ」
靖子は、そんなことには気付かず、ますます声を上げていた。
隆志は、アングルワイダーをはめた醜い姿で、美奈子に押さえつけられて泣き喚いている靖子を見て、ちょっとぎょっとしたように後ずさりした。
チュィイイイ、チュィイイイ、チュィイイイイン
「あはぁあああんっ、あ、いがぁああああぃいいいい」
「もうちょっと!我慢してください!動かないで!」
ヒュゥゥゥウウゥ。
しばらくたって、ようやくタービンが止まった。
「はい。口ゆすいで。」
アングルワイダーが外され、治療台が起こされた。
靖子は、よろよろと涙を拭いながら、口をゆすぐ。
「じゃ、詰めますね。簡単ですから。」
実際、詰めるところはすぐに終わり、靖子はホッとした。
「残りを考えるともう少し治療したいところですが・・ご家族も戻られたようなので今日はここまでにしましょう」
助かった・・靖子は、大きくため息をつくと、治療台から降りた。
「どうなんでしょうか」
隆志が、今井に尋ねた。
「そうですね・・少し虫歯が多いので、きちんと通ってもらわないと。特に前回治療を放棄したところが少しやっかいですので。」
「すみません、よろしくお願いします。治るまで通わせますので。」
隆志が頭を下げている。靖子はうつむいた。
「では、次回はまた5番の根の治療と・・前歯、今日の隣の1番。あと、歯周病の治療も始めて行きましょう」
今井が言った。
「し・・歯周病・・靖子、歯周病もですか?なりかけとかではなく?」
隆志が顔をしかめて聞くのに、美奈子が答えた。
「ええ、初期ですが立派に歯周病です。大丈夫、きちんと歯を磨けば治りますよ。」
「おかあさーん、歯、みがいてないの?」
「そ、そんなことないわよっ」
夫、娘、かつて自分が教えた後輩・・の前で、靖子は恥ずかしさで頭が真っ白になりそうだった。
「では、次回は水曜日あたりにいらして下さい。2時は大丈夫ですか?」
「はい・・」
「では水曜日の2時にお待ちしてます。朱里ちゃんもね。あ、これ、読んで下さいね。」
美奈子はそう言って、靖子に「口腔衛生指導説明書」を手渡した。
夜、家で開いた「口腔衛生指導説明書」には、図と文章がいろいろ書かれていた。
まず・・
穂坂 靖子 様
=病名=
虫歯・根尖性歯周炎・初期の歯周病
=お口の状態=
歯がずらりと描かれた図は、虫歯のところが黒く塗られている。さらにいろいろな記号がかかれ、記号の説明が続く。
C(齲蝕)
虫歯です。虫歯の部分を取り除き、詰めたり、かぶせたりします。
Per(根尖性歯周炎)
虫歯が進行して、根の中の歯髄(神経)が死んでしまったり、根の中が不潔になって、根の奥に膿がたまった状態です。根の中の掃除をきっちりして、お薬を詰める必要があります。治らない場合は、抜くこともあります。
In(インレー)
金属の詰め物です。
=症状・診断=
・あなたのお口には虫歯が 13本 ありました。
・根尖性歯周炎を起こしている歯があります。
・歯石・歯垢がたくさんたまっています。
・歯ぐきが炎症をおこしています。
・少しつよいお口のにおいがあります。
=治療=
・根の治療をして、虫歯を詰めたり、かぶせたりします。(虫歯・根尖性歯周炎)
・歯石を取って、歯磨きの指導をします。(歯周病)
=指導=
歯周病は、歯ぐきの発赤からはじまり、やがて口の中のネバネバ、歯ぐきの腫れや出血、口臭などがおこり、歯がグラグラしはじめます。放置すれば何本もの歯が抜けることになってしまいます。予防や改善には、歯磨きが不可欠です。
口臭は、歯周病だけでなく、虫歯が原因になることもあります。虫歯の治療や予防が必要です。
虫歯は、自然によくなることはありません。きちんと通って、最後まで治療を終わらせましょう。
=治療期間=
週1,2回の治療で約半年間(あくまでも目安です)
担当歯科衛生士 今井美奈子
靖子は、読みながら手が震えるのを感じた。さらに、最後の美奈子の署名と、「一緒にがんばりましょう!」という手書きのメッセージが気持ちを苛立たせる。かつて、会社で「指導」した美奈子に、指導されるなんて!しかも、書かれているのは恥ずかしいことばかりだ。破り捨てようとしたとき、隆志がやって来た。
「これ、なんて書いてあったんだ?」
靖子の手から紙を取り、読み始めた隆志の顔が不愉快そうになった。
「おまえ・・13本も虫歯があるのか?多すぎだろ。汚ねえな。」
靖子は、ふてくされて黙った。
「そんなだから、朱里が虫歯だらけになっちゃったんじゃないのか?ああ、小さいのに、可哀想に・・・」
悲しそうに首を振る隆志にも腹が立ち、
「それは関係ないわよ!」
と、つい声を荒げる。
「そんなに大きい声出すなよ。ほら、少しつよいお口のにおいがあります、って書いてある。やっぱりな。俺は正しかったよ。しかし、あの先生も桜井も大変だなあ、お前のくっさい口を覗き込んで、13本も虫歯治さなきゃいけないんだから。」
我慢できず、
「もう、寝るから」
と、席を立つと、追いかけるように隆志が言った。
「ちゃんと歯磨けよ。」
もともと、自分が痛い治療から逃げたせいとはいえ、ひどすぎる。靖子は、泣きながら眠りについた。
水曜日。隆志は、
「今日は歯医者の日だろ。ちゃんと行けよ。朱里もちゃんとお母さん連れて行ってな。お母さん、虫歯が13本もあるからな。」
「13ぼんも!」
「ひどいだろう・・でも、朱里も4本あったんだからな、全部治さないとダメだぞ。」
と念を押して出勤して行った。
はぁ・・・
今回は、逃げることはできないようだった。
朱里を幼稚園に迎えに行き、その足で今井歯科クリニックへ向かった。
完全予約制になっているらしく、それほど待たずに、診察室へ呼ばれた。
「穂坂、朱里ちゃんと靖子さーん」
靖子は、重い足取りで朱里を連れて診察室へと入って行った。
「こんにちは。えーと、治療は朱里ちゃんから始めましょうか。お母さんは、その間、スケーリングしてもらって下さい。」
と、今井が言って、治療台に朱里をのせた。
「よろしくお願いします」
「では、靖子さんはこちらへどうぞ」
と、美奈子が隣の治療台へと靖子を座らせると、自分も術者用の椅子に座った。朱里の治療補助には、別の衛生士が付くらしい。
逆にしてくれればいいのに・・・
と、靖子は、倒されていく治療台の上で思った。
カチャカチャと器具を整理していた美奈子が、マスクをつけるのが見える。
私の口の臭いのためかしら・・・
『お前のくっさい口を覗き込んで・・・』と言った隆志の言葉が思い出されて落ち込んでいると、
美奈子が靖子の顔を上から見下ろしながら言った。
「じゃあ、歯石を取っていきますね。少し痛いときもあるかもしれませんが・・そのときは言って下さいね」
後輩に見下ろされるのは、やはりいい気分ではない。が、仕方なく、靖子は、
「はい、よろしくお願いします」
と言った。
「では、お口開けてください・・・」
ミラーと器具をかまえた美奈子が言い、靖子は目をつぶって、口を開いた。
「あの・・靖子さん、」
しかしすぐに呼びかけられて、靖子は目を開けた。
「今日、歯、磨いていらっしゃいました?」
「は、はい・・・」
「そうですか・・・きちんと磨けていないですね。歯垢があちこちにたくさんついています。食べかすも残っていますし。」
「す、すみません・・・」
靖子は、恥ずかしさと腹立たしさでいっぱいだった。たしかに、痛む歯があったりして、歯をきっちり磨けないところもあるのだが、衛生士だからって、そんな、人を不潔呼ばわりするような・・・
「いえ、責めているわけではなくて、お口の状況を知っていただくために必要なんです。歯垢は、虫歯と歯周病の原因になりますから、きちんと取り除くことが大切で・・。」
しかし、美奈子も、苛めているわけではなく、仕事なのだ。知り合い相手、特に先輩には非常に言いにくいことだし、さらに美奈子はがっかりしていた。
てきぱき、仕事のできる先輩だったのに・・・お口の中がこんな状態でも平気な人だったなんて・・・虫歯も13本も放置してあるし、まだ34歳なのに歯周病で口臭もひどいなんて・・・ショックよ。
「早いうちに、歯磨き指導もしますけれども、歯磨きがきちんとできるようになれば、歯周病も、口臭も改善していきますから、頑張りましょう。」
「は・・はい。」
「では、もう一度お口を開けて・・・」
靖子は、ぎゅっと目をつぶって口を開け、美奈子も、気まずい空気の中、スケーリングを開始したのであった。
「んっ!」
「っつっ!」
時々、靖子の口からは声が漏れた。やや腫れのある靖子の歯茎は、あちこちから出血した。
一方、隣の治療台では、朱里の治療が行われていた。
前回、印象をとった左下のインレーをはめて、無事、調整も終わり、右下の治療に入る。
「うーん・・麻酔なしでは厳しいかな・・でも、まだ子供だし、しないで済むならその方がいいな。」
と、今井は麻酔なしで治療を始めることにした。
「きょうは、ちゅうしゃなし?」
朱里が聞く。
「うん、なしで頑張ってみよう。痛くなったら、言ってね。左手上げて、いたいですー、って、先生に知らせてね。」
初回の治療が痛くなかったのが朱里に好印象を与えているらしい。おとなしく、こっくりと頷く。
「じゃあ、始めるよ・・あーん・・」
「あーん」
チュィイイイイイン・・・
タービンが音を立てて、朱里の右下6番に食い込んでいく。
キュィン、キュィン、キュィイイイン
スコココ・・・
キュィィィイイイイ、チュイチュイチュイ、チュィイイイイイイ
・・これはちょっと痛みが出るな・・・
そう思った直後、やはり朱里の顔が痛そうに歪み、口から泣き声が漏れる。
「ぁ・・ぁあは・・」
やっぱり・・でもここでは中断できないからな・・・あとちょっと、我慢してくれ・・・・
「朱里ちゃーん、痛いかなー、ちょーっと我慢してねー」
朱里の変化に気付いた衛生士が声をかける。
キュィンキュィイイイイイン
「ぁあ・・ぁはぁ・・はぁあい・・」
朱里は左手を上げた。
「頑張って・・」
「もうちょっとだからねぇー」
今井と衛生士が口々に声をかける。
い・・いたいよぅ・・でも、もうちょっと、ってせんせいがいってるし・・
朱里は、今井の言葉を信じていた。しかし・・
チュインチュインチュイン・・チュィイイイイ
朱里の齲蝕は終わりを見せない。
「ぁはぁああぃいいい」
「もうちょっと頑張ろうねぇー、お口あけててねー」
おい、ずいぶん広がっちゃってるな・・でもこっちは・・歯髄から遠くなるから痛みは減・・・
「あぁ、いはぁああああぃいいいい」
朱里がついに泣き出した。
せんせいの・・うそつき・・・いたいぃぃぃ・・
ヒュゥゥゥン・・
なんとか、中断できるポイントまで削り終え、今井はタービンを止めた。
「痛かったね・・なかなかやめられなくてごめんね」
しゃくり上げながら口をゆすいでいる朱里に、今井は声をかけた。
ごめんね、と言われ、朱里も少し機嫌を直して頷く。
「でももうちょっと削らないといけないんだ。痛みが強いようだから・・やっぱり麻酔しよう。」
まだ削ると言われ、朱里はまた泣きそうな顔になって首を振った。
「もうちょっとって・・ぜったいちょっとじゃないもん!」
しまった、と今井は思った。自分では、子供を我慢させるときには、もうちょっと、と言わないようにしているのだが、
たしかに衛生士の亜美が連発していた気がする。
「うーん・・注射するから、今度は痛くないよ・・それでもダメかな?」
朱里の顔を覗き込みながら、今井は聞いた。
「朱里ちゃん、いい子だから、もうちょっと頑張れるよね?」
むくれていた朱里が、ちょっと考えてから、しぶしぶ頷いた。
「えらいえらい。」
褒めながら、治療台を倒す。亜美が、シリンジを用意した。
「じゃ、ちょっとお口あけて。」
これで痛かったら、もう次は口開けてくれんだろうな・・
と、表面麻酔を塗りこんでから、今井は朱里の唇を外側に引っ張り、慎重に針を刺した。
「よーし、頑張ったね。お口ゆすいでいいよ。」
「じゃ、削るからね。」
再び治療台を倒し、タービンをかまえて今井が言った。
朱里も、おとなしく頷く。
ヒュィイイイ・・・・
すでに大きくえぐられた窩洞に、さらにタービンが食い込んで行く。
チュイッィイイイイ
朱里は、痛くないかと、歯に全神経を集中していた。
チュィィイイイイイイイ
いたい・・ようなきがする・・・
キュィキュィキュィィィィイイイイイ
「ぁあ・・はぁ・・」
「朱里ちゃん、痛いかなー?麻酔したでしょー、痛くないよねー。」
亜美が声をかける。
「ぁ・あああ」
意識すればするほど、痛みは感じやすくなる。朱里は自分の泣き声にさらに興奮してしまい、痛みを強く感じるようになっていた。
キュィィィィイイイイイイン、チュインチュインチュィィィイイ
「い、ひぃ、いだぁああい」
「朱里ちゃん、動かないで・・あぶないよ・・」
今井がなだめるが、朱里は足をバタバタさせはじめた。
チュチュチュチュィィィイイ
「ぁあああだぁああああ!」
「美奈子さん!」
亜美が、スケーリングが終わった美奈子を呼び、美奈子は飛んできて朱里の足を押えた。
靖子は、口を濯ぎながら、朱里が泣き叫ぶ様子を見て、目を伏せた。
水を吐き出すと、ザラザラした汚い歯石と、血の混じった唾液が口から糸を引いた。
ぷっ。ぷっ。
何度吐き出してもなかなか切れない糸を、靖子はイライラして指で拭った。
「ぃぃいいだぁあああいいいい」
「はい、もう終わるよ、ほーら」
ヒュゥゥゥゥウン。
しばらくして、ようやく朱里の治療台のタービンの音がやんだ。
朱里の顔は涙でぐちゃぐちゃだ。
「頑張ったね、朱里ちゃん。」
美奈子が声をかけたが、朱里は怒っていた。
「いたかった・・ちゅうしゃしてもいたかった!」
口をゆすぐと、さらに削ったところに水がしみた。
「ぁはぁぁあんっ」
「あともうちょっと頑張ろうねー。お薬塗って、蓋しないといけないからねー」
印象材を準備しに行った亜美に代わって朱里をなだめていた美奈子は、また靖子に腹を立てていた。
こんなに子供に痛い思いをさせるなんて・・
大泣きしながらも、朱里はなんとか、型取りと仮封を終えたのだった。
「今日はちょっと大変だったから・・上の歯は次にしようか。次で全部終わるからね。」
朱里は、しゃくりあげながら、むすっと膨れたまま頷いた。
「じゃ、次はお母さんですね。」
今井が、カルテを見ながら、靖子の治療台へとやって来た。
「スケーリングどうでした?すっきりしました?まあちょっと痛みもあったと思いますが・・・」
「あ・・はい・・」
他にどう返事していいかわからず、靖子はあいまいに答えてうつむいた。
「今日は・・左上の1番と左下の5番を治療する予定でしたね、ではまず5番の根の様子を見ましょうか。」
「はい・・よろしくお願いします・・」
治療台が倒されていった。ふと横を見ると、朱里は美奈子から歯磨きの指導を受けているようだった。
顔を上向きに戻し、髪を整えると、すぐにライトが点灯される。
「はい、では、あーん」
ぐいっ、と唇が横に引っ張られ、尖ったピンセットで仮封がはがされた。
さらに中に詰められた綿を取り出して眺めた今井は、少し難しい顔になった。
「うーん・・まだまだダメだな・・」
カチャリ、とトレイにミラーとピンセットを置いた今井は、靖子のほうを向いて尋ねた。
「これ・・前はいつ治療したんでしたっけ」
「えぇと・・2ヶ月ほど前です」
「2ヶ月か・・痛んだりしませんでした?」
「いえ・・ときどき、少し重い感じがしたことはありましたけど・・・」
「そうですか。あのですね、正直に申し上げて、かなり厳しい状態です。今日、もう一度綺麗にしてみて、改善が見られなければ、抜歯ということになります。」
「バッシ・・」
「歯を抜くということですね。」
「あ、はい、わかります。」
靖子としては、面倒にあれこれ長く治療されるよりは、さっさと抜いてもらうほうが良いんだけれど、くらいに思っていたので、今井の宣告にも特にショックは感じなかった。
「では、ちょっと徹底的に洗いますね。あーん。」
靖子は口を開けた。綿が頬の内側に詰められる。横目で見ると、今井が針のようなものを手にしている。
この間のと同じ・・痛くないんだけど、ちょっと音が怖いのよね・・・
そう思っていた靖子の耳に、今井の声が届いた。
「あ、少し痛むかもしれませんが、麻酔しても同じですから。」
えっ!痛いの!!
ファイルの先端が歯に触れた感触に、とっさに身体を硬くする。
ゴリゴリ、ゴリゴリゴリ・・
「んはぁ・・・」
やっぱり、音と感触が気持ち悪いわ・・・
「痛みますか」
「いへ・・ぁ、んぁあっ、いはっ」
痛くはないわ・・と思っていたところへ、ゴリッ、と痛い一撃が来た。
ゴシゴシ、コリコリ・・
「んはっ・・は・・ぁはっ」
「頑張って下さーい」
「あー、バイトブロックちょうだい」
「はい」
亜美が取ってきたバイトブロックが、右の奥歯に噛まされる。
コリコリコリ、ゴリゴリゴリゴリ・・ガリガリ・・・
「んんーっ!んんーっ!んっ・・・」
恐ろしいくらいの呻き声を上げ、涙をにじませながら、靖子は身をよじった。
もう・・こんな痛いことしないで、抜いて済むなら抜いてよ・・・
歯磨き指導を受けている朱里も、母親の醜態に目が釘付けになっている。
ファイルを変え、ふたたび靖子の口腔内に挿入しようとした今井の腕を、靖子の手が止めた。
「い・・いあ・・」
ふるふる、と首を振って訴える。
今井が小さくため息をついて、ファイルを置くと、靖子の口からバイトブロックを抜いた。
「我慢できませんか」
「はい・・・抜いて済むなら、もう抜いて下さい、お願いします」
靖子は懇願した。
「なるべくなら残す方がいいのですが・・ご本人の希望ならまあ、仕方ありませんね。抜きましょう。」
「ありがとうございます・・・」
「抜くと決まったら、まあ早い方がいいですね・・といっても今日じゃ急ですから、次回にしましょうか。次回の治療も朱里ちゃんと二人で・・土曜日でいいですか?」
「はい。」
「では、ここ閉じますから。あーん。ちょっと薬がしみるかもしれませんが・・」
今井の言ったとおり、薬はひどくしみた。
「ぁあっ!ぁっ!」
また大騒ぎして、ようやく左下5番の仮封がされたのだった。
治療台が起こされたので、のろのろと口をゆすぎ、
あ、まだ前歯の治療があったんだっけ・・あれも痛かったわ・・・嫌・・・
とぼんやり考えながら、ぐったりと身体を治療台に預けていると、今井が聞いてきた。
「あと前歯の治療がありますけど・・どうしますか、身体が辛いようなら、次にしますか?」
次の患者の予約の時間が20分後に迫っていたせいもある。普通なら大人の前歯のレジン充填ならそれくらいで終わるのだが、
靖子の場合は痛がったり、麻酔を追加したり、もう少しかかるかもしれないな・・と今井は考えたのだった。
朱里と靖子二人分で1時間15分時間を取ったのだが、十分ではなかったようだ。
美奈子の知り合い、それもかつて世話になった人だというのと、まだ開院して間もないので患者は大事にしなければいけないというので診ているが、どちらかというと、厄介な患者・・あまり来て欲しくないタイプだな・・と今井は思っていた。子供はそれでも可哀想だが、この母親の方は・・
「あ、はい、そうしていただけると」
靖子は、治療が先に延びると聞いて、すでに治療台から立ちそうな勢いであった。
次、ちゃんと来るかどうか・・・
今井は思いながら、母娘を送り出したのだった。
さて、土曜日。隆志は朝からゴルフに出かけてしまった。出かけるとき、
「今日歯医者だろ。頑張れよ。お母さんと一緒にちゃんと行くんだぞ。」
と朱里に釘を刺していった。はたして・・・
昼食後、靖子と朱里は歯を磨いていた。
はあ・・行きたくないわ・・今日はなんだったかしら・・歯抜いて・・それよりも、前歯・・この前の前歯の治療は痛かったわ・・
ため息をついて口をゆすぐと、朱里がじっとこちらを見ている。
「どうしたの?」
「あかり・・はいしゃさんいきたくない・・・」
「でも、お父さんにもちゃんと行くんだぞ、って言われたでしょう」
「でも・・いたかったもん!いきたくない!おかあさんもいやでしょ?」
涙をうかべて訴える朱里に、
そうよね、こんなに嫌がってるのに、連れて行くの可哀想よね・・・
という親心と、自分が行きたくない気持ちが重なる。
「じゃ、別のところ行こうか。水族館行く?」
「わーい、すいぞくかん!ペンギンさんみるの!」
朱里はペンギンが好きなのだった。
水族館は空いていた。デートスポットとして人気になるような大掛かりなものでもなく、昔ながらの普通の水族館だ。
朱里がペンギンの前で興奮していると、
「あかりちゃん!」
「しおんちゃん!」
幼稚園の友達の、加藤詩音がやはり母親と来ていた。
「あら、こんにちは・・主人が出張で居ないものですから詩音が退屈して・・おたくは?」
「うちのはゴルフ・・・」
立ち話をしながら、詩音の母親、祐子は思っていた。
あら、この人、P臭いわ・・
祐子は、高校生の頃から大学生まで、ずっとバイトで歯科助手をしていた。最近また、近所に新しく出来た歯科医院で週2回、カルテチェックのパートをしている。祐子が2軒目にバイトしていた歯医者は、やや悪徳で、祐子が大人っぽく見えるのと、歯科医院勤務の経験があるということで、祐子に衛生士の仕事も一部させていたのであった。スケーリングなどもかなり担当した祐子は、歯周病(P)患者の生臭いような独特の口臭をひさしぶりに思い出していた。
あと、虫歯の臭いもあるわ・・・けっこう旦那さんのお給料良さそうなのに・・関心が無いのかしら?
祐子は靖子の全身をそれとなく眺めて値踏みしながら思っていた。
「くたびれちゃったから・・お茶でもしません?」
靖子が、館内のカフェコーナーを指差した。
「そうですね。あ、私ちょっとお手洗いに行って来るから、詩音も連れて先に座っててくださる?」
「いいわよ。」
祐子が立ち去り、靖子は子供たちを連れにペンギン池の柵の方へ行った。二人はバラバラに居るらしい。先に詩音を見つけた靖子は、しゃがんで話しかけた。
「詩音ちゃん、みんなでおやつ食べましょう。朱里がどこにいるか知ってる?」
すると、詩音は鼻をつまんでのけぞって言った。
「あかりちゃんママ、おくち、くさい!おじいちゃんみたい!」
靖子は凍りついた。が、なんとか笑顔を作って立ち上がると言った。
「あら・・ごめんね。で、朱里はどこにいるか知ってる?」
「あっち。」
詩音は何事も無かったかのように池の反対側を指差し、靖子も恥ずかしさで顔が真っ赤にしながらも、詩音と一緒に朱里を探し、二人を連れてカフェコーナーに座った。
大人はコーヒーを、子供たちはアイスクリームを頼み、しばらくは幼稚園の話など他愛ない話をして過ごした。
祐子は、笑ったときに靖子の左下5番の白い仮封を見つけ、
あら、一応、歯医者に通院はしてるのね・・・自費のクラウン入れるのかしら・・それとも保険かしら・・・まあ5番なら保険でもいいかしら・・でも、あれってババくさいわよね・・・
とあれこれ考えはじめた。
靖子は、一応エアコンの風下に座ったつもりだったが、急に祐子の視線を口に感じて、
この人にも、口が臭いって思われてるんじゃないかしら・・
と気が気でなく、落ち着かなくなった。
と、アイスクリームを食べ終わった詩音に、祐子が何かを渡した。
「トイレはあっちよ。」
「はーい」
詩音はタカタカと走って消えた。詩音が居なくなってしまったので、つまらなくなった朱里は、
「またペンギンさん見てくる」
と立って行った。
「詩音ちゃん、トイレ一人で大丈夫?」
と靖子が聞くと、祐子は笑って答えた。
「歯磨きしに行ったのよ。今アイスクリーム食べたでしょう。何か食べたらすぐに磨いた方がいいのよ。」
「あら・・こんなところでも・・・?」
靖子は思わず言った。
「もちろんよ。うちの主人が歯が弱くって。あの子もあまり丈夫じゃなさそうで、乳歯はけっこう虫歯多かったのよ。今は大人の歯が生えてくる大事な時期でしょう。大人の歯は虫歯にしないって、本人も頑張ってるわ。今生えてる2本はまだ大丈夫なの。朱里ちゃんは?6歳臼歯生えてきた?」
「え、ええ・・もう4本生えたみたいだわ」
「あら、じゃあ大事にしなきゃね。生えたては虫歯になりやすいのよ。気をつけて。歯医者さんに行ってフッ素塗ってもらったり、溝埋めてもらったりしたら?」
「そうね・・でも、朱里、歯医者さん嫌いだから・・・」
もう全部虫歯にしちゃったわ、とも言えず、靖子はうつむいた。
「そんなこと言ってたらダメよ。朱里ちゃんのためにならないわ。」
そこへ、詩音がカタカタと歯ブラシケースを鳴らしながら戻ってきた。と、朱里も戻ってくる。
「おかあさん、あそこでアメもらったー。」
と、朱里は口を開けて飴を見せる。毒々しい色の飴だ。唾液が色づいているらしく、治療中の右下の白い仮封がうす緑に見えた。
「ちょっと、すごい色ね・・口の中が緑よ。」
思わず靖子が言うと、祐子が聞いた。
「え、そんなにすごい色なの?」
「あー」
朱里が、祐子にも口を開けて見せる。
なにげなく覗き込んだ朱里の口の中では、飴よりも、左下、乳歯の奥歯の2本の詰め物の奥で大きなインレーがギラリと光って存在を主張していた。
あら・・朱里ちゃん、6歳臼歯はもう虫歯になっちゃったんじゃない・・しかもこんなに大きな!
右側に目を走らせると、やはり一番奥の6歳臼歯は真っ白い仮封だ。ここもそれなりの大きさのインレーが入るに違いない。こんなに治療をされたら、歯医者嫌いにもなるだろう。4本生えたって言ってたけど、上の歯はどうかしら・・やっぱりもう虫歯??
が、祐子は苦笑いしながら
「あんまり身体に良くなさそうな色の飴ねぇ」
とだけ言って、虫歯については触れるのをやめた。
あ・・朱里の銀歯・・見られたわ・・・
靖子はハッと祐子の顔を見た。
「そろそろ、行きましょうか?」
祐子はそれだけ言って、二組の親子はそれぞれ、家に向かったのだった。
さて、家に帰り、夕飯の支度をしていると、隆志が帰ってきた。
しばらくして、電話が鳴ったが、隆志が出たようなのでそのまま料理を続けていると、
「靖子!!」
と怒鳴りながら、隆志が台所にやってきた。
「お前、また歯医者サボったらしいな!」
ああ、バレちゃった、と靖子は思った。まあ、知り合いのところに通っているのだから、そういうこともあるだろうとは思っていた。
「ええ。行かなかったわ。」
靖子は開き直った。
「だってすごく痛いのよ。」
「痛いからって行かないなんて・・」
隆志は怒っていたが、靖子も負けなかった。
「あなただって、骨折したあとのリハビリ、痛いからイヤだって、途中でやめたじゃないの。歯医者だけそんな風に言われるなんておかしいわよ。」
「ん・・・」
隆志は言葉に詰まったが、すぐに思いついて反論した。
「朱里はどうするんだ。お前が痛いのが嫌だからって連れて行かないと・・」
「朱里だって行きたくないって言ったのよ。」
「それに、骨折は治るが、歯は歯医者に行かないと治らないんだよ。そうだよ、歯医者はやっぱり特別だ。行かないとダメだ。」
「・・・」
今度は靖子が言葉に詰まる番だった。
「でもとにかく、嫌なものは嫌なのよ。桜井さんに口の中覗き込まれるのも嫌だし。馬鹿にされてるんじゃないかと思うと耐えられないわ。」
「だったら馬鹿にされないような口にしないとダメだろう。明日日曜だけど10時から診てくれるそうだから。朱里も連れて行こう。」
「嫌よ。あなたが朱里だけ連れて行ってよ。」
「いや、お前の方が重症だって言ってたぞ。それに、その臭い口、なんとかしろ。そのせいで朱里がいじめられたりしたらどうするんだ。」
靖子は、昼間、詩音に「あかりちゃんママのおくち、くさい」と言われたことを思い出した。あれはたしかにショックだった・・・
隆志は、靖子が黙ったのを見て、しぶしぶ納得したと判断して、朱里を呼びに行った。
「あかり、歯医者さん行かなかっただろう」
「だって・・いたいもん・・・」
「痛いからって行かないと、また痛くなるぞ。治すのももっともっと痛くなるぞ。」
「おかあさんみたいに?」
「そうだ。それに、もう、朱里の歯は、そんなに痛いことしなくていいって、先生言ってたぞ。だから明日、歯医者さん行こうな。」
「せんせい、うそつきだもん。いたくても、いたくないっていうもん。」
「わかったわかった、先生が嘘ついたらお父さんが怒るから。いいな、明日は歯医者さん行くんだぞ。」
「ん・・・」
「お母さんにも、一緒に行こうって言うんだぞ。」
「おかあさん、あかりよりもいたいからかわいそうだよ」
「ほっておくともっと痛くなっちゃうんだよ。それに、歯が抜けちゃうらしい。朱里、お母さんの歯がなくなったら嫌だろう。」
「いやだ!」
「じゃあ、明日はお母さんと一緒に、歯医者さん行こうな。お父さんも行くから。」
「・・ぅん・・・」
まったく、手がかかるな。
これまで、靖子と大喧嘩したことも、子育てのことで悩んだこともないが、ここに来て、歯医者ごときでこんな面倒な思いをするとは。人生、何が起こるかわからんな。
隆志は、どっと疲れが出た気がして、ため息をついた。
さて、翌朝。
「靖子。起きろ。歯医者行くんだから。」
「ん・・・はぁ・・・あふ・・・」
「うっ・・」
いつもは靖子が先に起きているのだが、日曜なせいか、歯医者に行きたくないと思うせいか、靖子はなかなか起きようとしない。そこで、隆志は靖子を起こしにかかったのだが、寝ぼけた靖子に朝一番の吐息を思い切り吐きかけられ、その臭いにショックを受けたのだった。
うへっ、なんだホントに・・自分では気付かないのか?
それでもなんとか起こし、朱里も起こし、なんとか約束の10時に間に合うように、二人を連れて今井歯科クリニックへと車を出したのだった。後部座席の二人は、葬式にでも行くのかというくらいに沈んだ表情である。
もしかすると、これから毎週、週末はこんななのか?
靖子は、放っておいたら歯医者通いをサボるに違いない。
まあ、朱里が治ったらまあ、それでいい・・・か?
悩んでいるうちに、今井歯科クリニックに到着した。
「ほら!」
朱里の手を引き、靖子の背中を押しながら、隆志は医院の中へ入った。
美奈子と今井に出迎えられ、
「もう、本当に申し訳ありません。」
と頭を下げる。
「いえ、こちらこそ出しゃばった真似を致しましてすみません。今後はご連絡したりしませんから。」
と美奈子も頭を下げてきた。
次は知らんぞ、ということだ。
「では・・まず朱里ちゃんから行きましょうか。今回で終わるはずですから。」
「よろしくお願いします。」
隆志と靖子は、診察室の中のベンチに座った。
嫌そうな朱里を、今井が治療台に座らせる。
「じゃあ、まず、このあいだの下の歯に、銀歯はめるからね。」
今井は、トレイに載せた模型の上のインレーを見せた。ギラギラと光り、歯を前後左右に貫く十字型のものである。
はめるだけなら平気、と、朱里はおとなしく口を開けた。
右下の・・仮封を外して・・・
「ちょっとしみるかな・・」
と言いながら、慎重にエアーをかける。
朱里は、びくっとしたが、一応おとなしく口を開けたままだ。
仮にはめて・・確かめて・・もう一度外してセメントをつけ、本留めする。
高さもいいようだ。
ぴったりと嵌まったが、朱里の下顎の臼歯は、すべてギラギラとインレーが輝いている状態になった。
特に6番は、歯自体が大きいせいもあり、非常に目立つ。
まだ幼稚園らしいのに・・・
美奈子は、眉をひそめつつ、
「朱里ちゃん、頑張ったねー。上の歯も綺麗にしようね。」
と声をかけた。
前回、麻酔をせずに治療を始めて大騒ぎになったので、今回は、下の歯よりも軽そうだが麻酔をすることにした。
「はーい、注射するからね・・」
表面麻酔も施し、痛みが出ないように慎重に針を刺し、薬液を注入する。
朱里はおとなしいままだ。
「じゃあ、削っていくからね。痛くなったら教えてね。」
こくこく、と朱里は頷き、治療が開始された。
キュィイイイ・・・・
ヒュィンヒュインヒュィイイイイイイ・・・
景気のいい音を立てて、タービンが歯に食い込んでいく。深くなった溝に沿った着色・・・一応診断はC2だ。
チュインチュインチュィイイイイイ・・・・・
削りながら、今井は、虫歯が思ったよりも広がっていることに気付いた。
インレーにしたほうが安全・・・でも、前回、今日で終わるって言ってしまったし、なんとか今日で終わらせないと・・・
迷いつつも、2回照射でなんとかレジンを詰めることにする。
「ぁ・・・あ・・」
ヒュゥウゥゥウウ。
朱里が声をかすかに出しそうになったとき、タービンが止まった。
「はい、削るのはもう終わりだよ」
「頑張ったねー朱里ちゃん」
朱里は、褒められて満足そうな顔だ。
レジンの充填も順調に終わり、朱里は治療台から解放された。
「おわったー!」
朱里は両親のほうへ駆け寄った。
「よし、偉かったな。」
隆志が褒めてやる。が、靖子は、自分の番が来たので、顔を強張らせている。
「どら、お父さんに見せてごらん」
という父親に、あーん、と朱里は口を開けて見せた。
奥歯にずらりと並んだ銀の詰め物に、隆志は一瞬ぎょっとした顔をした。
まだ幼稚園なのに・・ま、前の方は抜けるんだしな。
隆志は自分を納得させる。
「今ある虫歯は全て治療しましたが、少なくとも半年ごと、できれば3ヶ月に1回くらいずつ検診に来て下さい。」
今井が隆志に向かって伝えた。
「えっ・・3ヶ月ですか。」
「ええ、子供さんの虫歯は進行が速いですから。3ヶ月に1回検診をしていれば、もし虫歯が発見されても、小さい虫歯のうちに治療できます。」
「なるほど、わかりました。ありがとうございました。」
隆志は納得して頷いた。
「では・・靖子さん」
靖子が治療台に呼ばれた。仕方なく、靖子は治療台に座った。
「えーと・・今日は・・・5番の抜歯ですね。あと、前歯の治療を。」
今井が、カルテを見ながら言った。
「ちょ・・あの、抜歯って、歯を抜くということでしょうか」
隆志があわてて立ち上がって治療台に向かってきた。
「そうです。」
今井が、なんでもなさそうに答えた。
「そんなに・・ひどいんでしょうか?」
「そうですね、根の奥に膿が溜まっていますし・・奥様も治療に耐えられないようですので」
「で・・抜いた後は・・どうなるんでしょうか?そのままですか?入れ歯ですか?」
さすがに妻が30そこそこで入れ歯になっては困る・・と、隆志は思った。
「いえ、入れ歯ではありません。普通のかぶせものと同じものを、前後の歯とつなげて入れます。ああ、こういうものです」
明日治療に来る患者のために用意してあった、3連クラウンを見せる。ギラギラと銀色に輝いて存在感がある。
「はあ・・」
仰々しい銀歯に、隆志は少し引いた。と、これまで黙っていた靖子が言った。
「あの、これ・・全部銀なんですか!?」
抜かれても別にいいわ、と思っていた靖子だが、実際に目にした全部が銀色の歯はあまりに見た目が悪すぎる。この歯の前後となると・・一番前の奥歯からだ。誰にでも見えてしまう。
「えー、保険の治療だとそうですね。自費の治療で白くすることはできますが・・」
「それは、おいくらくらい・・・」
靖子がおそるおそる聞いた。2,3万円だろうか。7,8万円くらいまでならなんとか・・・
「7万円・・が1本の値段で、これは3連ですので、ざっと20万円くらい・・あと、中の土台や治療も入れて・・30万円くらいでしょうか。」
今井の口から出た金額は、想像の10倍であった。
「え・・」
靖子は絶句した。
ちら、と隆志を見るが、ありえない、と首を振っている。
「保険の治療で2万円ちょっとですから、10倍以上ですね。」
保険でもそれだけかかるのか・・・
隆志は、舌打ちしたい気分であった。