陽子は、左上の奥歯が微かに、でも鋭く痛み出したのに気が付いた。
しまった・・・なんで今日なの・・・痛み止め持ってないわ・・・
「まあ、キレイよー」
伯母が感激したように声を上げる。
陽子は、美容院で振袖を着付けてもらっていた。今日は伯母の友人宅に「お正月のご挨拶」に行く予定であった。
その友人宅にはちょうど良い年頃の息子がいるとかで、肩肘張らないお見合い、といった趣向である。
「見た目も家柄も申し分ない方なのよ」
と、伯母のお墨付きであったが、その家柄とは、「代々歯医者」。
父の姉である伯母は知らないであろうが、「母方が代々歯が弱い」ために自分も歯が悪い陽子にとっては、よりによって・・というところで、ありがた迷惑なのであった。
陽子は、23歳。母校の付属の幼稚園で保母をしていた。
子供のころから、歯医者通いから縁が切れたことがなく、いつもどこかしら治療を受けているような状態だった。ここ半年以上、トラブルがなく、そのことが逆に、
「そろそろどこか痛み出すんじゃないかしら」
と陽子を不安にさせていた矢先であった。不安だったのにもかかわらず、和服用のバッグに移し変えたとき、痛み止めを入れるのを忘れてしまったのだ。
「お願い・・・なんとか持ちこたえて・・・」
陽子は心の中で祈り、待ち構えていた伯母と共にタクシーに乗り、伯母の友人宅に向かった。
立派な日本家屋の伯母の友人宅に到着すると、客用の座敷に通された。料亭から取り寄せたらしい、立派な弁当も用意されている。
「お待たせしてしまって」
「いえいえ」
伯母の友人春子と、「見合い」の相手、智彦は、共に歯科医であった。初対面でも、とっさに歯に目が行ってしまうのは職業病である。
見える範囲の前歯・・・3番から3番は差し歯だな・・・自費治療のなかなか高いものだ・・・が、奥歯には金属も見える・・・
かなり歯は悪いようだ・・・
挨拶の際に、陽子の歯を値踏みしていたのであった。
表面上は、食事は穏やかに進んだ。陽子の仕事の話や、お互いの趣味の話など・・・
しかし、気になっていた左上の奥歯の痛みが徐々に強くなっていた。
陽子は、はじめのうち、笑顔で相槌を打っていたが、徐々に、相手の話があまり頭に入らなくなってきた。
やがて、少し飲んだビールが回ってきて、歯は脈打つように痛み出した。ズキズキズキ・・・
「うっ・・・」
耐えられず、左手を頬に当てる。
心ここにあらずといった様子の陽子を、やや不審そうに見ていた春子がそれに気付いた。
「陽子・・さん、歯が痛いんじゃありません?」
「えっ・・あっ・・あの・・・」
全員が、陽子に注目した。
「口開けてごらんなさいな」
陽子が、ハッと春子を見ると、春子はさらに続けた。
「普通こんなことを若いお嬢さんに言うのは失礼なのは承知ですけれど・・・智彦も私も歯科医ですし・・・歯が痛いならお役に立てますから」
それを聞いて、見合いに乗り気の伯母が言った。
「陽子ちゃん、診ていただきなさいよ」
その発言が決定のような雰囲気になり、陽子は、その場・・・座敷・・・で、歯を診察されることになったのであった。
「どこが痛むんですか?」
「左・・の上・・・です」
恥ずかしさで消え入りそうな声で答えながら、陽子は智彦と向かい合って座り、口を開けた。
「あーん・・・もうちょっと大きく開けられますか・・・」
振袖を着て、畳の上に正座し・・・一生懸命に大きな口を開ける。
「ちょっと見にくいなあ・・・」
智彦が下から覗き込む。陽子は恥ずかしさでいたたまれなかった。陽子の口の中はギラギラなのだ。
「すみません、ここに頭載せて座ってもらえますか」
智彦が、床に腰を下ろし、左ひざを立て、膝頭を手で叩く。
「えっ・・・こぅ・・ですか・・・・」
智彦の勢いに押され、陽子も仕方なく指示に従った。
床に座り・・・智彦の膝に頭を預け・・・後ろにもたれかかるような格好になった。
「そうです。はい、あーん・・・もうちょっと大きく開けて・・・」
右手で陽子のあごを持ち上げ、光がうまく口腔内に入るようにしながら、智彦は陽子の歯に目を凝らした。
「ははーん、これですね・・・これは痛いでしょう・・・」
6番に光るクラウンの奥・・・7番に小さく入れられたインレーの周囲が大きく齲蝕しているのが見つかった。
それを聞いて、春子も陽子の口の中を覗き込んできた。
「あら・・・可哀相に・・・こんなに虫歯が進んでしまったら・・痛いわね・・・」
同情の言葉のようだが、同時に、虫歯を責められているような気がして、陽子はこの場から逃げ出したくなった。
が、春子は言った。
「私どもの医院・・・ここからすぐですから・・治療した方が良いんじゃないかしら?まだお正月ですから、どこもやっていませんでしょう」
智彦の膝に体を預けて口を開けさせられたまま何も言えずにいた陽子の周囲で、勝手に、陽子の治療が行われることが決まった・・・
「どうぞ・・えっと・・・帯がつぶれてしまうかな・・・」
陽子を治療台に案内し、着物を気遣う智彦に、一瞬、このまま帰る口実ができた!と思った陽子だったが、伯母が
「いえいえ、大丈夫です、また戻せますから」
とさえぎった。陽子は仕方なく、振袖のまま治療台に上り・・・袖をそろえて膝の上に載せた。春子が治療用エプロンと、さらにタオルを用意して、着物を覆う。
華やかな着物と、胸元から肩にかけて覆われた地味な白のタオルのコントラストが痛々しい。
「口紅取ってくださいね」
春子がさっとウェットティッシュを差し出し、陽子は口の周りのメイクを拭った。
上着を脱ぎ、白衣を着た智彦が戻ってきた。
「こんな華やかな患者さんは初めてだ」
緊張でこわばっている陽子に、智彦が笑って見せたが、陽子の緊張はほぐれなかった。実はこれまで、いつも治療してくれていたのは女医だったのだ。男の先生に見せるのは初めてだ。それも・・・お見合いで歯が痛くなって、相手に治療されるなんて・・恥ずかしい・・・
陽子は、自分の振袖に包まれた体を見て、その華やかさに、気持ちが逆に落ち込むのを感じていた。
「じゃ・・始めましょう」
治療台がウィーン、と音を立てて形を変える。智彦が右手でライトを操作し、陽子の口を照らすよう調節する。
「はい、お口開けて・・・」
陽子は、目を閉じ、ゆっくりと口を開けた。
これは思ったより・・ひどいかな・・・
強い光の下で見ると、7番はインレー周囲の派手な齲蝕だけでなく、歯全体が飴色に変色してしまっている。
「とりあえず・・麻酔をして・・レントゲンを撮りましょう。」
麻酔のシリンジが用意され、智彦は慣れた手つきで、7番の周囲数箇所に麻酔を2本打った。
じんわりとしびれてくる違和感を抱えながら、陽子は治療台を立って、レントゲン室に案内された。
振袖を着て・・この部屋に入ることがあるなんて予想もしなかったわ・・・
袖が床に落ちてしまわないように両手で袖を抱えて座り、ピーっという音を呆然としながら聞いた。
治療台に戻り、再び袖を綺麗に揃え、タオルをかけてもらう。足袋に包まれた自分の爪先を見つめ、また沈んだ気分になった。
やっぱり、こんな話は断って、短大時代の友達と初詣に行ったほうが良かったわ・・・
たとえ歯が痛くなったとしても、誰かに痛み止めを貰って・・・休み明けに歯科医に飛び込めばいいだけだったのに・・・振袖姿でこんなところで・・・
智彦が、レントゲン写真を持って陽子のそばにやって来た。シャーカステンを点灯し、写真をセットする。
「そんなに固くならなくても大丈夫ですよ、この歯の状態から見ると、今さら治療が怖いわけでもないでしょう」
智彦が言うとおり、陽子のレントゲン写真にはかなりの治療痕が映し出されている。すべての奥歯に入る大小の詰め物、上下左右の奥歯に2、3本ずつ入ったフルクラウン・・上の前歯にずらりと並んだ差し歯・・・。
陽子は虫歯が多いことを恥ずかしく思っていたのに、それが真っ白な治療痕となって晒され、もういたたまれなくなった。
「あら・・たしかにずいぶんと派手に治療されてるのね・・欠損も・・まだ23歳でしたわね?」
春子が今さらながらレントゲンを見て驚いたように言い、伯母に尋ねた。
「ええ・・あら・・陽子ちゃんは綺麗な歯をしてるとばっかり・・・」
伯母は恐縮しきっている。
「もう・・歯が悪いなら先に言ってちょうだいよ・・しかもこちらのお宅で歯が痛くなってしまうなんて・・そんな歯が痛くなるまで虫歯を放っておくような姪を代々歯医者さんの御家に紹介してしまって、伯母さん本当に恥ずかしいわ」
歯が丈夫で、虫歯=不潔、というイメージがある伯母は、陽子を責め立てた。
周囲からさらなる攻撃を受け、陽子は指先が真っ白になるほどハンカチを握りしめた。
すると意外にも、春子から救いの手が伸びた。
「いいえ、診たところ、お手入れは綺麗にしてらっしゃるわよ。恥ずかしいようなお口ではないわ。」
陽子は少しだけホッとしたが、その後、春子は
「たしかにこのレントゲンだけ見たら23歳とはとても思えませんけれど・・40歳代・・後半くらいかしら」
と続けた。陽子はまた身体を固くした。
「ママ!たしかに治療状況はすごいけれど、そんなのは人によるんだから。」
智彦は母親をたしなめ、固くなっている陽子に向き直った。
「とりあえず、痛むところを治療して行きましょう。それから、後で他も見せて下さい。いくつか気になるところがあるから。」
はぁ、と陽子は小さくため息をついた。「気になるところがある」と歯医者が言うときは、虫歯があるということだ。そうして詰め物は大きくなり、やがて神経を抜かれて銀歯になる。また銀歯が増えちゃう・・・
ウィーン、と治療台が倒され、ライトが点灯される。美容院で、いつもよりも濃い目に塗られたメイクが白く映える。
「はい、お口開けて・・あーん・・」
陽子は目を閉じて口を開けた。ギラギラと口の中のあちこちで金属が光る。前歯にずらりと並んだメタルボンドは、裏側の半分くらいから金属が見えているタイプで、ここもかなりまぶしく光っている。
まずは、ピンセットを手に取り、先を閉じて、左上7番のインレーを揺すってみた。
「ぁ・・あ!」
痛む歯に乱暴な刺激が加えられ、陽子は声を上げた。
周囲が大きく齲蝕しているにもかかわらず、インレーはびくともしなかった。かなりしっかり接着されているようだ。
智彦はピンセットをトレイに置くと、タービンの先を選び、構えた。いつの間にか、どこから出してきたのか、かっぽう着を羽織った春子も陽子の左側から、バキュームを引っ張り出してスタンバイする。
「では削っていきますね」
陽子はかすかに目を開けて頷く。
チュイィイイイイイイ・・・・ヒュィィィィイイイイイイ・・・
タービンの音が、静かな診察室に響く。
静かである他にもう一つ異様なのは、室内の3人の女性が皆和服姿であり、治療台に横たわる若い女性がひときわ艶やかな振袖に身を包んでいることであった。もっとも、胸元から上はきっちりと白いタオルで覆われ、帯から下だけが華やかな色彩を見せている。
おだやかな冬の午後の陽光が窓から降り注いでいる。その光の中で、患者の口の中から噴き上がるように飛び散る飛沫がキラキラと輝く。
ヒュィイイイイイイイ・・・ヒュィイイイイイ・・ン。
智彦は一度タービンを止め、ピンセットで外れたインレーをつまみ上げると、トレイにカラン、と置いた。次にミラーに持ち替え、患部をじっくりと診察する。
春子は、スリーウェイシリンジで患部にシュッ、シュッ、と水をかけると、バキュームでジュボボボボボ・・・と吸い込んだ。
「うーん・・・これはやっぱり・・・」
智彦が、首を回してレントゲンを確認してから言う。
「神経は抜かなければなりませんねぇ。」
再び、陽子はかすかに目を開けて頷いた。さっきからの痛みで、抜髄は覚悟していたが・・・。あの治療の痛みは何度受けても慣れない。
最初に抜髄治療を受けた小学生の時から数えて、すでに15回くらいは経験しているが・・・毎回、泣いてしまう。
この人・・上手いといいんだけど・・・
さっきまで恥ずかしさだけだった気持ちに、不安が混じる。
「では続けましょう。」
キュィイイイイイイ・・・・
タービンが再び音を立てて、陽子の齲蝕した7番に食い込んでいった。
キュィイイイイイイ、キュィイイイイイ・・・キュィキュイキュィイイイイイイイ・・・
ズズ、ズズズ・・
キュィイイイ、キュィイイイイイイ・・・・
ずいぶん、長く削るものなのね・・・
歯科治療にうとい伯母は、診察室の隅にある椅子に座って顔をしかめながら治療の様子を眺めていた。
自分が削られているわけでもないが、かなり嫌な音である。
キュィイイイイイ、チュイチュイチュィイイイイイイ・・・・
ズズズ・・ズズ・・ズズズズ・・
チュイン、チュイン、チュィイイイイイイ・・・・
あ・・ちょっと・・痛・・・
足袋に包まれた爪先が、モソモソと動き始めた。
陽子は、
まだ終わらないのかしら・・・
と、薄目を開けてみた。自分の口から噴き上がる飛沫が見えただけで、陽子は再び目を閉じた。
タービンの先はどんどん奥へ進んでいるらしく、痛みも増してきた。
「ぁ・・ぁあ・・ぁは・・」
必死に我慢したが、ついに耐え切れず、陽子の口から声が漏れ始めた。
ぎゅぅううっと足の先まで力が入っている。
「あー、痛みますか・・頑張って下さい・・・」
智彦が声をかけるが、タービンが止まる気配は無い。
チュイチュイチュィイイイイイイ
「んぁ・・ぁはぁああ、はぁああああんん・・」
声は徐々に大きくなっていった。
ちょっと、陽子ちゃん、そんなみっともない・・・歯医者さんで大人が我慢できなくて声を・・しかもそんなはしたない声を出すなんて・・・
伯母が見かねて声をかけようとしたとき、
「ぁはあああっ!」
ヒュゥウウウウウウウ。
陽子のひときわ大きい声とともに、タービンの音が止んだ。
「はい、削るのはおしまいです・・」
ズズズ、ジュボボボボボ・・・・
と音をさせてからバキュームも口から抜かれた後、治療台が起こされた。
「んぅぅう・・」
と、陽子が顔をしかめて頬を押さえながら口をゆすぐ。
口をゆすぎ終わってほっとして、ふと自分の下半身を見て、
そうだ、私、振袖だったんだわ・・・
と気付く。
「かなり痛みましたか」
智彦が横から尋ねた。
「え、ええ・・すみません・・声出したりして」
「いえ、痛むものは仕方ないですから。歯髄・・神経が充血してましたからね。神経が興奮してしまっているんでしょう。」
春子がトレイに、抜髄用の器具や薬品をカチャカチャと用意している。
やっぱり、神経まで抜くのね・・・
陽子はこの先の治療を思って憂鬱になった。もしかすると、薬だけ詰めてまた今度、ということにならないかと期待していたのだが。
思わず、ため息をつく。
「少し、休憩しましょうか?」
「あ・・いえ・・はい、お願いします・・・」
「じゃあ、先に他を見せていただきましょう。」
あ、休憩って、この歯の治療をしないというだけだったのね・・
陽子が少しがっかりして目を伏せると、智彦が聞いてきた。
「・・それとも、今、他にかかっている歯科がありますか?」
「あの、いつも診て頂いている先生ということでしょうか?」
「いえ、今、治療中かどうかです」
「今は・・特にありません。去年の春に治療に行ったのが最後で・・」
「半年以上、歯科受診なしですか・・あまり良くないですね。」
「すみません」
智彦の少し非難するような口調に、思わず陽子は謝った。
「では、全部診ましょうか」
「あ、は、はい・・よろしくお願いします」
「では早速。」
ウィーン、と再び治療台が倒された。
すでに見られているとはいえ、あらためてこの口の中を見られるのはかなり恥ずかしい気持ちがあった。
「はい、お口開けて・・・」
陽子は、目を閉じてゆっくりと口を開けた。智彦がミラーで1本1本の歯を見て行く。
右上の7番は、高校1年のときにレジン治療、その後短大に入った年にインレーに変わり、去年の春に再治療を受けたところだ。今は前後左右に貫く大きなインレーが嵌められている。
6番は、中学1年のときからフルクラウン。まだ中学生だったこともあり、保険のものだ。5番は一昨年の治療で4/5冠が嵌められた。4番は高校3年生の時にクラウンになったが、短大の推薦面接を控えていたせいもあり、頬側の面は白い、保険外の硬質レジン前装冠だ。
3番は短大2年のときに差し歯になった。メタルボンドのものだ。次の2番から左の3番まではメタルボンドの5連ブリッジである。右上1番と左上2番が欠損しているのだ。
「この2本の前歯がなくなった原因は・・やっぱり虫歯ですか」
「・・はい。」
消え入りそうな声で陽子が答える。
後ろで聞いていた伯母は息をのんだ。まだ23歳なのに、もう虫歯で無くなった歯があるですって?しかも女の子なのに大事な前歯を2本も!思わずため息をつきながら首を振る。
そんな伯母に春子が声をかけ、二人はお茶を飲んで休憩するために診察室を出た。
「いつからですか?」
智彦が尋ねた。
「こっちが・・短大に入った年で・・こっちが・・一昨年です」
「ふ・・む、ずいぶん早いですね」
成人するときには、すでに1本が欠損していたわけだ。
「その前は・・差し歯ですか?」
「はい・・」
「いつから?」
「よく覚えていませんが・・最初の差し歯はたしか中学3年生のときで・・・あとは毎年増えるような感じで・・」
左上2番は、中学3年生で差し歯になった。痛みがひどくて抜髄したが、小学校3年生から何度もレジン治療を繰り返していたために、歯質そのものもほとんど残っておらず、差し歯にせざるを得なかったのだ。高校1年では右上1番が、高校2年では右上2番がそれぞれ差し歯になり、それらの歯にはさまれて、失活後の変色が目立ってきた左上1番も、高校3年で差し歯にした。高校を卒業するときには、すでに前歯4本がすべて差し歯になっていたのであった。保険の差し歯なので変色するかしら・・と心配していたが、短大に入った年の夏休み。最初に差し歯にした左上2番の根の先が膿んでしまい、変色するまえに抜歯になった。左上3番もすでに何度か治療済みの虫歯であったため、抜髄して、左上1~3のメタルボンドブリッジにしたのであった。しかしその2年後、仕事中、園児の手が軽く当たっただけだったのだが、右上1番の差し歯がポロリと外れてしまった。歯医者に駆け込むと、差し歯の下で虫歯になっていた歯の根に亀裂が入ってしまっていて、抜歯しなければならないと宣告された。再び換装が必要になり、5連続のメタルボンドブリッジになったのであった。
「なるほど・・ちょっと気になるのはですね、この右上の2番の土台から根の部分が黒くなってましてね、おそらく虫歯です。」
智彦はレントゲンを指した。たしかに・・指差した先は少し黒く抜けている。
「と言いますと・・」
「虫歯部分が小さければ治療も考えるのですが、根の部分まで行ってしまっているようですから・・・残念ながら、抜歯ということになります・・」
「またブリッジ・・」
陽子は考え込んだ。一昨年作ったばかりのブリッジを、また作り直さなければならないのか・・3番の差し歯も入れたばかりなのに。
歯の治療費は父親が出してくれるから心配はないのだが、前歯だけですでに100万円くらいはかかっているだけに、さすがの父親もまた5,60万となると渋い顔をするだろうな、と陽子は思った。
「ただ、またブリッジを作り変えるとなると・・左上の1番が、作り変えるのが3度目ということになりますから、もう持たないのではないかと思いますね」
「え・・では・・」
「この1番も一緒に抜歯することになるかもしれません」
陽子は、今日何度目かのため息をついた。そうなると、前歯が4本無くなることになるわ・・・。もっとも、前回ブリッジを入れたとき、はめる直前の自分の口は、コアが3本歯茎から出ているものの、ぱっと見では前歯が5本無いような状態であり、まあ大して差は無いのか・・という気もした。まだ23歳なのに、そこまで平気な自分にも悲しかった。
「ただ、4本ダミーとなると、強度的にやや問題があるので、ブリッジを、もう1本後ろ、4番まで延長するか・・インプラントという方法もあるにはありますけど、陽子さんは若干骨が薄いようですし・・・」
8本つながっている歯・・・陽子は考えてまたもため息をついた。
「まあ、2番が痛み出すか、取れてしまってから考えればいいのですが。そのうち、こうなるということだけ知っておいて下さい。」
「あ、はい・・」
「もう一度お口開けて・・・」
再び、ミラーが口の中に入れられた。
左上の4番は、短大に入った直後に入れた4/5冠。5番は去年入れたばかりの硬質レジン前装のクラウン。6番は中学3年のときからのフルクラウンで、7番が今回痛み出した歯である。
たしかに、23歳の歯には見えないな・・・
しかし、上の歯は、すべてが治療済みであるだけでなかった。全ての歯の頬側面と前面以外は金属でおおわれていた。唯一、生き残っていた、小さいインレーで済んでいた左上7番も、今回の治療でフルクラウンにするしかない。正面から見ると、前装冠のおかげで、素人目には綺麗な歯の持ち主に見えるかもしれないが、口を開けると、全ての歯がギラギラと光る。そういえば、陽子は保母だ。子供たちから見えているのは、今この、口を開けたときの歯では・・?
「あの・・保母さんをなさっているんですよね」
「・・・はい。」
質問の意図に気付いたように、陽子が恥ずかしそうに答えた。
「子供たちに、何か言われませんか?」
「しょっちゅうです・・子供は正直ですから。ようこせんせいの歯、なんでそんなにギラギラなの?とか、ロボットなの?とか・・きもちわる―い、という子もいますし・・カッコイイ!っていう子もいますけど・・・」
陽子は力なく笑った。
「そうですか・・では下も見せていただきましょう・・あーん・・」
左下の7番は後ろ半分を覆うような大きなインレーだった。短大2年のときに入れ替えたものだ。
「んー・・」
智彦は、ミラーでじっくり見た後、探針を手に取り、インレーと歯質の境目をつついた。
「んぁ!」
陽子は、大きく顔をしかめた。
「虫歯になってますね。」
言いながら、さらに溝にそって探針を引っ掛けて、ぐぐっ、ぐぐっ、と揺すった。
「んぁああっ、んぁっはぁっ・・」
顔をしかめた陽子の口から、痛そうな声が漏れる。
「けっこう進んでますよ・・歯が弱いのでしたら、もっと頻繁に歯科を受診した方がいいですね」
「は、はひ・・・」
左下6番は、小学6年のときに入れたフルクラウンだ。智彦は、クラウンと歯茎の境をミラーでじっくり見ながら、探針でつついて難しい顔をした。
「これは・・なんとかやり直せるかな・・」
とつぶやきながら、レントゲンをじっくり見る。
陽子が不安そうな顔で横を見る。
「少し歯茎が下がって、そこから中の歯に虫歯ができてますね。根は・・今見える限りではなんとか大丈夫そうですけども。」
5番は、短大卒業直後に入れた硬質レジン前装クラウン。4番は一昨年入った、後ろ側の小さめのインレーだ。奥歯の中では最後まで虫歯にならなかった歯である。が・・
「んぁいっ」
インレーと歯の境の歯の付け根あたりに開いた小さな穴に探針を突っ込まれ、陽子はうめいた。
3番はレジン充填。2年ほど経って少し変色している。
特に清掃が甘いようにも見えないのにな・・・
特に歯石も見当たらず、綺麗に磨かれていて、歯茎も綺麗だ。
なのに、下の前歯にまで虫歯が・・・
左下2番に、両隣との隣接面、さらに付け根あたりから、虫歯が広がっている。1番もその影響で小さく虫歯だ。
右下2番と3番も間からレジンが充填されている。
右下は4番から7番までの4連ブリッジだった。5番と6番が欠損。4番と5番はレジン前装されていて、6番と7番がフルメタルだ。
「ここは?」
「3年前から・・です・・」
「同時に?」
「いえ・・後ろの方が小学校3年生から銀歯で・・」
「銀歯って、フルクラウンのことですか?全体が銀色の。」
「はい・・で、中学の終わりか高校の始めごろに・・痛くてたまらなくなって、中が膿んでるって、抜かれてしまって。それでブリッジを入れたのですけど、高3のときに前の土台の歯が虫歯になって作り直して・・・3年前、また前の土台の歯がダメになって、今度は抜歯でした。それでこの4本つながったブリッジに・・ブリッジを入れるときに、後ろの土台の歯の虫歯を治したんです。次はもう無いから気をつけるようにって・・・でも、私の歯だと5年持てばいいって言われました・・・でもこの歯が無くなると・・ブリッジはできないって・・・」
気まずい沈黙が流れた。
「まあ、そうなったら当然、入れ歯、にするしかないですわね・・。」
いつの間に戻っていたのか、突然、春子が後を引き取った。
伯母は倒れるほど驚いた。
「陽子・・入れ歯にするしかないですって!?」
思わず興奮して声を上げて詰め寄る。
「いえ、まだ、今はまだ大丈夫です、伯母さん、落ち着いて・・・」
智彦が必死になだめた。
「あ、あらそう・・つい、興奮しちゃって・・」
伯母はオホホ、と笑いながら椅子に戻った。
しかし・・・危ないところだ。いつまで持つか・・・
智彦はレントゲンを横目で見ながら思っていた。クラウンの白い影から伸びる根の一部がやや黒くなり始めているような・・・たしかに25がいいとこかもしれないな・・・
「みつ子さん、まだ長くかかるかもしれませんから・・先にお帰りになったら?陽子さんは、治療が終わったら智彦が責任持ってお家までお送りしますから。」
春子が伯母に言い、智彦は伯母の方を振り返り、頷くように会釈をした。
「でも・・」
伯母はなぜか渋っている。
「大丈夫ですよ、普通、中学生くらいからは付き添い無しですから。それに・・別に薬で眠らせて変なことなんてしませんから、安心してください」
智彦は微笑んだ。去年の年末、笑気で患者を朦朧とさせ、いたずらをした歯科医が逮捕されて話題になったのだ。
「い、いえ、そんなことを疑っているわけじゃありませんわ。では・・」
そう言われてまで居残るのは、疑っていると言うようなものだ。本当は陽子がみっともない姿を晒すのではないかと心配で見張っていたかったのだが・・・伯母は仕方なく、春子にタクシーを呼んでもらい、退散することにした。
「さて・・何の話でしたっけ、ああ、そう、治療が必要な虫歯という話では、6本です。今日痛み出した歯を入れて。」
智彦は治療台を起こしながら言った。
痛み出した左上7番を抜髄してフルクラウン。左下の7番は・・もし神経が残せるとしても、アンレーか4/5冠だろう。6番はクラウンをはがして・・クラウンを作り直すか、最悪のケースは抜歯。4番のC2はまあインレーやり直しで何とか・・1番もレジンでいいが、2番はどうかな・・レジンでいけるか・・もしかすると表面だけ残す3/4冠・・・下の前歯の裏側が金属は目立つか・・
「さっきも言いましたけど、陽子さんはかなり歯が弱いようですから・・半年以上歯科を受診しないというのはかなり無謀ですよ」
「は・・はい・・・」
「今・・23歳で、欠損が4本ですから・・1本でも多く歯を残せるように努力してください。目標は3020ですね・・・」
「はい・・ぅうっ・・」
麻酔が切れてきたのか、再び歯が痛み出した。左頬を押さえて、うずくまる。
「では・・治療再開しましょう。」
もう今日は終われるかと思った陽子は、この後のさらなる痛みを考え、憂鬱になった。
「もう一度麻酔しましょう」
治療台が倒される。乱れたタオルを春子がきっちりとまた直してくれる。
「はい、あーん・・」
麻酔が打たれた。麻酔はなかなか上手いような気がする。
神経を取るのも上手いといいんだけど・・・
不安そうに見ていると、智彦はカルテを見て数えながら言った。
「もう抜髄とか根治とかベテランですね。16本はやってるんだから。」
「あら、そんなに?失活歯16本?」
春子が驚いたように言った。恥ずかしい。
「正確に言うと欠損4本の失活歯12本だけど・・・」
「それはたしかにベテランね・・」
そう言いながら、春子がスッとバキュームを構えた。
「じゃ、行きましょうか・・お口開けて・・・」
智彦が、ミラーとファイルを手にして、陽子に開口を促した。
いよいよだわ・・
陽子は深呼吸をして、目を閉じると口を開けた。
・・それにしても、すごい口の中ね・・
春子は、あらためて、自分の家に嫁に来るかもしれない若い娘の口の中を観察していた。上の歯は、頬側・前側以外はすべてギラギラではないか。
・・こんなにギラギラではちょっと、うちの嫁ですって世間様にお見せするのは恥ずかしいわね・・もし決まったら、全部白い歯に入れ替えさせたほうがいいかしら・・でも見える機会もそんなに無いならこのままでもいい気もするし・・・ま、本人に決めさせましょ・・・
考えていると、陽子が痛そうな声を出し始めた。
「ぁ・・んぁあ・・」
白い足袋を履いた爪先が、ピーンと伸ばされ、脚がもぞもぞと擦り合わされている。
春子は、30年以上前の自分を思い出していた・・・
それは短大の卒業を・・・実は春子が歯科医になったのは、子供が生まれてしばらくして、夫が事故で働けなくなってからのことで、もともとは短大の家政科の出身である・・・翌年に控えた、ある秋の日であった。
春子はこの家を両親と共に訪れていた。春に見合いをして、両親も本人同士も気に入って話がまとまってからしばらく経っていたが、突然、どういうわけか家に招待されたのであった。
春子は振袖を着て、応接室のソファに両親に挟まれて、少し緊張気味に座っていた。
「やあ、相変わらず綺麗だねえ、こんな可愛いお嫁さんが来てくれるなんて、信彦は幸せだ。」
未来の義父に褒められ、春子は少し赤くなってうつむいた。両親もまんざらでもなさそうだ。
「今日はわざわざおよび立て致しまして。今日来ていただいたのは・・」
義父母が頷きあう姿に、春子は少し不安になった。
・・何かしら・・
「ご存知の通り、我が家は歯科医の家ですから・・春子さんの歯をね。診せていただこうかと思いまして。あの、信彦の修行も兼ねまして。」
未来の義父が言い、結婚相手の信彦も頷いている。信彦は来年の春に歯科大学を卒業することになっていた。
「夫のお勉強のためにもなるなんて、結婚前から、美しい夫婦愛じゃございませんこと?」
未来の義母の言葉に、母も応じた。
「本当に。そんな風にお役に立てるなんて、めったにないことですものね。」
春子は、ひきつった笑顔で応じながら、必死に自分の歯を舌で探っていた。
・・虫歯、痛かったりするところは無いとは思うんだけれど・・
30年も昔のことである。歯医者は痛くなったら治療に行くところであり、検診を受けたりするために通う人間はあまり居なかった。一応、年が明けたら、結婚する前の健康診断に行こうとは思っていたが・・最後に歯医者に行ったのは、高校生の頃だったか・・。
「では、さっそく診察室の方へ・・」
6人は、ぞろぞろと診察室に移動した。当時は家とつながって医院があったのである。
「春子さん、どうぞ。」
帯を気にしながら、春子は治療台に座った。
白衣を着込んだ信彦が横の丸椅子に座った。義父も白衣を着ている。
カチャカチャと、台にミラーや探針が並べられていく。
「痛むところなどはありますか?」
「・・ぃぃぇ。」
春子が小さな声で答え、首を振った。
「甘いものは・・お好きですよね。」
診察室の中に笑いが起きた。春子の実家は、羊羹が有名な老舗の和菓子屋なのだ。
「ええ、まあ・・」
「では、見せていただきましょうか」
信彦の声で、椅子が倒れ始めた。
倒れきったところで、義母が春子の胸元にタオルをかけ、春子の唇を彩っている口紅を濡れた綿で拭い取った。
ライトが点灯される。
「じゃあ、お口開けてください。あーん」
結婚する相手の前で大口を開けるのは恥ずかしい。一瞬ためらった後、春子は観念して、口を開けた。
信彦と義父が、揃って口の中を覗き込んで来た。春子は恥ずかしくなって、目を閉じる。
「は、はーん・・」
義父が声を上げた。春子の胸がドキドキしはじめた。
・・な、なに?・・
「虫歯が・・そうだね・・・1、2・・3・・」
義父のものと思われる手が顎に添えられ、春子の顔を動かしている。
・・虫歯・・あるのね・・
春子は少し恥ずかしくなった。
「4・・5・・」
・・そ、そんなに!?
手をぎゅっと握り合わせて、恥ずかしさに耐える。後ろで両親も、心配そうな顔になっている。
「・・まあ、そんなところかな、どこが虫歯か分かるかね?」
「はい、まず・・」
信彦が後を引き取った。ミラーが口に入ってくるのがわかった。
「ここ・・あと・・ここ・・」
針のように尖ったものが、春子の歯をつつき回している。
「うむ・・うむ・・」
義父が満足そうに頷く声が聞こえる。
・・そうよ・・信彦さんのお勉強のためだもの・・虫歯があるからって、恥ずかしがること無いんだわ・・
春子はそう考えようとしたが、やはり口の中に虫歯がたくさんあると指摘されるのは恥ずかしい。
「んぁ!」
何本目かに突かれた歯が鋭く痛み、春子は思わず声を上げてしまった。
「ああ・・少し進んでいるようですね」
「そうだな」
おそるおそる目を開けて様子を伺ったが、2人は春子にはお構いなしで、顔を見合わせて話し合っているだけだった。
少しホッとしつつも、気遣ってはもらえないのだと寂しい気持ちも覚えながら、春子はまた目を閉じた。そして・・
「ああ、ここもやられてますね・・ああ、こっちもかな」
ガリガリ、カリカリ。針がつついているのは・・・
春子は恐怖に近い感覚に身を震わせた。
「あーそれは気付かなかった。たしかにそうだ・・こっちからは見えてないかな・・いや、ここも少しやられてきてるね」
義父の手で、上唇がめくり上げられる。
・・え・・そんな・・・
「お父さん、お母さん、ちょっと・・」
「春子さん、前歯まで虫歯にしてしまいましたよ」
2人は春子の両親を呼び、春子の前歯の虫歯を見せた。
「ええっ!前歯が・・女の子なのにそんな・・」
「春子、ちゃんと歯は磨いてるのか、そんな、若い娘が前歯を虫歯にするなんて、みっともない・・」
春子は、再びそぉっと目を開けた。さっきまでの信彦と義父のほかに・・義母も春子の足の方から顔を覗かせ、さらに責めるような顔つきの自分の両親がこちらをにらみつけている。
春子はいたたまれない気持ちになって、ぎゅっと目を閉じた。
「でも、良かったじゃありませんか、早いうちに見つかって。」
義母が恩着せがましく言い、
「本当に・・どうもありがとうございます」
と母親が言っているのが聞こえる。
「早く治療した方がいいでしょうねえ」
「前歯は保険が利かないんでしたっけ・・」
「それは私どもでなんとかしますから・・・」
「早速今日から治療に・・・」
大人たちの会話に、春子は消えてしまいたいほどの気分で横たわっていた。
「春子さん」
信彦に呼びかけられ、春子は仕方なく目を開けた。
「おいしい羊羹、食べ過ぎちゃったかな?」
笑顔で問いかける許婚に答えずにいると、彼は顔を厳しくして、不機嫌そうに言葉を続けた。
「春子さん、ずいぶんと虫歯を作ったね。若いお嬢さんなんだから、もっと歯を大事にしないとダメじゃないか。しかも歯科医の妻になるんだから、きちんとしてくれよ。」
「・・すみません・・」
春子は消え入りそうな声で答えた。
「始めましょうか」
その場で、春子の前歯の虫歯の治療が始められることになった。後ろでは、春子の父親が怖い顔で、母親が泣きそうな顔で見ていた。
まだ学生の信彦が、母親に助手をしてもらいながら治療をする。父親は息子に必要な指導をするために春子の頭のところに付き、春子の上唇を顔が歪むほどめくり上げて保持していた。
ヒュィイイイイイ・・・
うなりをあげるドリルの先が、春子の前歯の裏に食い込んでいく。
チュイチュイチュイイイイイイイイ・・・
キュルルルルウウウ
春子は、身体を突っ張らせ、両手を握り締めて痛みに耐えていたが、やがて我慢できなくなって声を上げた。
「ぁあ・・・は・・・ぁはぁあああ・・・」
「ちょっと・・春子・・・やめなさい、そんな声出すの・・」
後ろから、母親が見かねて声をかける。
しかし、痛いものは仕方なかった。
チュイチュイチュイイィィィィッィイイイイイ
「んはぁあああ・・・ぁあああ・・」
顔を歪めて痛がっていると、頭上から義父の声が飛んだ。
「自分で虫歯を作ったくせに、それくらい我慢できないのか」
キュィイイイイイイ・・・
「・・んっ・・・んくっ・・・」
春子は必死に声を上げないように耐えた。
ギュインギュインギュイン・・
ドリルは歯の前面の齲蝕に食い込んだ。根元に近い部分で、痛みはより激しさを増した。春子は耐え切れず・・
「んはぁあああっ・・」
「んはぁあああっ・・」
陽子がひときわ大きな声を上げて身体を突っ張らせた。春子はふと我に返った。陽子の額には汗が浮かび、閉じた目に涙が滲んでいる。痛みで裾を気にするどころではないのだろう、足も派手に動かしたのか、振袖は膝上まで前がはだけてしまい、少し立てた膝にかろうじて長襦袢がまとわりついている状態である。
「うーん、少し休みましょうか」
智彦が言い、陽子はふぅぅっ、と息をついた。
「す、すみませ・・うるさくて・・」
小さく謝る声は涙声だ。
「いえ、声を出した方が楽なら、ちっともかまいませんよ。こちらこそすみません、なるべく痛くないようにしているつもりなんですが・・」
意外な歯科医の言葉に、陽子は思わず智彦の顔を見上げた。嫌味を言っているようではない。
「麻酔・・もう少し入れた方がいいんじゃないかしら?」
春子は言いながら手を伸ばして、陽子の着物の裾を直してやった。
「あ・・本当にすみません・・・あの・・こんなところお見せしてしまって・・伯母が見たら何と言うか・・」
陽子はハンカチで汗と涙を拭きながら、恐縮しきっていた。春子は少し冷たくも聞こえる声で言った。
「それは今は気になさらなくていいわ、そのために帰ってもらったのよ。みつ子さんは虫歯になったことないんだもの。あの痛さを知らないんだから。」
「え・・?あの痛さって・・」
陽子が戸惑っていると、ファイルを点検していた智彦が陽子の方を向いた。
「陽子さん、もしかして、歯医者は虫歯になったことがないとでも思ってますか?」
「あ・・そういえば・・そんな気が・・してました」
そんなこと、考えたこともなかった。歯医者さんがこっち側・・治療台に座ることがあるなんて。
「誤解ですね。なる人はなります。僕なんて、抜髄を受けたときは、声を出す前に、痛さで気を失いかけました・・実際、治療してても失神するのは男が多いんですよ、女の人はやっぱり強いんですね・・」
いつも抜髄で泣いてしまう陽子だが、失神したことはないわ・・と考える。
「ま、それはともかく、麻酔、追加した方がよさそうですか?かなり痛そうでしたけれど・・痛みの程度は本人にしかわかりませんから。ご自分でお決めになって下さい。すでに2本入れてますが、あと2,3本なら特に問題ありません、そこはご心配なく。」
無表情ではあるが、言っている内容はどちらかというと親切にも思える。陽子は少し安心して、おかしな成り行きで治療してもらうことになったこの若い歯科医に今は頼ることにした。
「では・・お願いします・・」
陽子の言葉に頷いた智彦は、一瞬考えて言葉を継いだ。
「もう一度、痛いの我慢できますか?」
「えっ?」
安心して頼ろうと思ったところだったのに、何を言われるのだろう?という陽子の不安そうな表情に、智彦は弁解した。
「いえ、麻酔を歯茎ではなくて、神経に打つ方法があるんです。打つときはもちろん痛いのですが・・効き目は大きいです。痛いといっても、行為そのものは、さっきのファイルを入れるのと同じですから、痛みもそのくらいです。」
「・・おまかせ・・します」
「では、中に打たせていただきますね。動かれると危険ですから、ちょっと無理やり押さえます。今だけですから、我慢して下さい。」
「は・・い・・」
・・無理やり・・
少し怖かったが、頷くしかない。
直後、春子は少し体重をかけて陽子の両肩を押さえ・・智彦は左腕で陽子の頭を胸に抱え込むようにがっちりとホールドした。
・・ひっ・・
怯えて見上げると、智彦と目が合った。大丈夫、というように頷く目を信じて、陽子はゆっくりと口を開けた。
近付いてくる注射器が怖くて、目を閉じる。
「いきますよ・・」
身体を固くして身構える。チ・・ク・・
「んぁは!」
陽子の身体にビィイン、と力が入った。
「声出していいですから・・力抜いて・・」
「ぁああ・・はぁああああ・・・・」
言われるままに、陽子は声を出し、涙を流していた。
「そう・・・頑張って・・・すぐ楽になるはずよ・・」
春子も思わず声をかけていた。自分の辛かったあの日を思い出しながら。
前歯を削られる痛みに耐えかねて、春子は思わず声を上げ、身体を動かしてしまった。
腹を立てた義父に呼ばれて、両親が春子の身体を押さえに借り出された。
「んぁああ・・はああ・・」
大人5人に囲まれ、押さえ付けられ、口を開かされた状態で歯を削られる。痛みと悲しさですでに頬は涙に濡れていたが、
「静かにしなさい」
「自分が虫歯を作ったのに」
「みっともない」
「泣く資格なんかない」
容赦なく非難の声が降り注ぐ。まだ20歳になっていない春子は、その言葉に腹も立てられず自分を責めるしかなく、孤独を感じていた。
痛みと恥ずかしさに耐えて30分後、春子の前歯の治療は終了した。
「2日後・・今日詰めたところ、磨きに来て下さい。そのときまた別の虫歯を治療します。全て治すまで、しばらく通っていただくことになりますね。」
「はい・・どうもとんだお世話をかけまして。なんとお礼を申し上げていいやら・・よろしくお願い致します。」
恐縮する両親に挟まれて頭を下げながら、春子は気になっていた・・今日詰めたところを・・「磨き」に?
家に帰る車の中でも、春子は両親に非難され続けた。
「そんな、嫁入り前の娘が前歯を虫歯に・・結婚が決まってからで本当に良かった・・」
「それを破談と言わずに治してくれるなんて、あちらのご両親はなんて親切な・・感謝しなさい」
うつむいたまま、春子はバッグから手鏡を取り出すと、おそるおそる、いーっ・・としてみた。
「・・い、いやぁああっ!」
春子は手で口を押さえると、手鏡を取り落とした。
前歯4本の歯の間・・さらに真ん中の歯の根元に黒々とした金属が見えていた。
それは祖母の額縁金歯よりも目立っていた。
治す前はなんともないように見えたし、痛くもなかったのだから、そのままに・・せめて結婚式、短大の卒業式まではそのままにしておいてくれれば良かったのに・・・
その夜、春子は一人泣き続けた。
信彦がその次の週に、実技の追試を控えていたと知るのは後のことである・・・
「ん・・ぁは・・・はぁ・・」
最初に入った薬が効き始めたのだろう、陽子の身体から力が抜け始めた。
「もう少しです・・・そう・・・」
智彦が陽子の頭を抱え込んでいた左腕から力を抜いたのを見て、春子は押さえていた陽子の肩から手を離し、補助者用の椅子に座り込んだ。昔を思い出したせいで疲れてしまった。
・・陽子さん・・突然連れてこられて治療されて、智彦を恨んでないと良いけど・・・それならこの話を断ってくれればいいんだしね・・でも、みつ子さんが納得してくれるかどうか・・・
春子は心配そうに若い2人を見つめた。
「はい・・いいですよ。すみませんでした、押さえたりして。大丈夫でしたか?」
「はい」
ぐったりとした陽子が小さく頷く。
「では、治療を続けましょう。楽になっているはずです。あーん・・」
陽子は再び目を閉じて口を開き、春子もバキュームを構えて治療体勢に入った。