うっ・・歯が・・また・・・
中学校の卒業式。陽子は、つまらない校長の言葉を聴きながら、歯痛に苦しんでいた。
思わず手を右頬に当てる。
すると、巡回している担任の教師がスッと横に来て、
「近藤さん。」
と小声で言った。あわてて手を身体の横に戻す。
陽子の通う学校では、校長のしゃべっている間は、直立して、手も身体の脇にそろえていなければならないというきまりであった。
で・・でも・・いたい・・お願い、早く終わって!
陽子の願いが通じたのか、校長先生はすぐに話を終え、生徒たちは着席することができた。
ふぅ・・
手を頬に当ててさする。こうやっても痛みが無くなるわけではないのだけど。

歯が痛み出したのは昨日の夜中だ。なぜか歯は夜痛くなることが多い。
普段なら、学校を休んで歯医者に駆け込むところだ。小学校から中学までの9年間で何度歯痛で休んだことか。しかし、今日は卒業式だ。小学校から短大まで一貫教育の陽子の学校では、中学を卒業するからと言って何も変わらないのだが、
「まあ、こういうのはけじめだからな。一応出た方がいいだろう。」
と父親が言い、卒業式には、痛み止めを飲んで無理をおして出席しているのであった。
ああ・・痛い・・どの歯が痛いのかしら・・・右下のココのような気がするんだけど・・もう神経抜いてあるからそんなはずないし・・・
陽子は、どうも徐々に強くなっている気がする痛みの中で一生懸命考えた。
謝恩会は抜けさせてもらおう・・講堂を出たら・・・お母さんに歯医者さん予約してもらって・・・
ふと気付くと、オルガンの音が講堂に鳴り、ちょうど前の列の生徒が立ち上がって退場していくところだった。
隣のルカが立ちあがり、あわてて自分も立ち上がり、前の列の生徒に続いて退場する。
講堂を出たところで、ルカが聞いた。
「陽子、また歯が痛いのか?大丈夫?どこ痛い?」
ルカは母親がオランダ人のハーフで、背が高くてボーイッシュ、言葉もややぞんざいだが、まあまあ優しい。特に陽子が歯が弱いと知ってからは、あれこれ細かく気にしてくれるのだった。
「うん・・右下だと思うんだけど・・た、たぶんダメ・・・謝恩会は抜けると思う・・・うぅぅ・・」
自由に動けるようになったので、両手を右頬に当てて押さえる。
「大変だね、あんたも」
ルカがそう言って、肩をポンポンと優しく抱いてから人ごみに消えていった。と思うと、陽子の母親を連れて戻ってきた。
「陽子ちゃん。やっぱりダメ?歯医者さん予約しましょうね。」
訊ねる母親に、陽子はただこくこくと頷いた。
「ルカちゃんもありがとう。いつもよくしてもらって。」
「いえいえ。私には歯の痛みはわかんないけど、ただ陽子がつらそうだから。気にしないでください。」
ルカは母親譲りの真っ白い丈夫な歯を見せてニコッと笑ってから、陽子に向き直るとふざけて言った。
「では、幸運をいのる。報告を待っておるぞ。来週の訓練には参加できるように!」
「うん、ありがと・・」
陽子は、来週、スキーをしにルカの家の信州の別荘に泊まりに行くのだった。

2時間後。陽子は、自宅近くの歯医者の待合室に母親と一緒に座っていた。家に帰ったあたりから、右の顎が少し腫れてきてしまい、氷を当てて冷やしているが、痛みは引かず、陽子はぐったりと椅子にもたれかかって、涙目になっている。本当はすぐにでも診てもらいたかったのだが、すでに春休みに入っている学校もあるせいか、混んでいて、なんとか頼み込んで、2時間半後の予約がようやく取れたのであった。少しでも早く診てもらえないかと、30分前に来てみたが、治療台は全部埋まっているようだ。
「陽子ちゃん。先にレントゲン撮っておきましょうか・・」
衛生士がカルテを手に、呼びに来た。小学校2年生から、この歯科に来なかった月は数えるほどしかない陽子のカルテは、厚さが1センチほどになっている。
「お母さんは、診察になったらお呼びしますね。」
「お願いします」
母親は立ち上がって頭を下げた。普通、中学生にもなれば、保護者は治療に付き添わないが、陽子は治療が大掛かりで、母親の付き添いがあった方が、治療法の選択などで都合がいいのであった。5歳年上の兄、直紀の治療にさえ、高校の途中まで母親が付き添っていた。

結局、早く診てもらえるどころか、レントゲンを撮ってから45分ほど待たされ、陽子はようやく治療台に呼ばれた。痛みは右下全体に広がり、腫れもひどくなっているような気がする。
「あー。腫れちゃってるわね・・いつから?」
歯科医の香代が、陽子の顔を正面から見ながら言った。
「昨日の夜痛み出しまして・・でも、今日が卒業式だったものですから。で、さっきから腫れが。」
ぐったりしている陽子に代わって、母親が答える。
「卒業式じゃ仕方ないわよね・・」
言いながらも、レントゲンを見た香代は難しい顔になった。
右下6番の根の下に膿がたまり、骨が溶け始めているのが見える。
仕方ないわね、・・こうなったら、抜歯するしか・・・
たしか、ここは最初に抜髄してクラウンになった歯だ。小学校の低学年だったと思う。
「あの・・とても残念なのですが」
切り出した香代に、母親がおそるおそる後を続けた。
「抜かなければいけないでしょうか・・・」
母親は自分も歯が悪く、歯の治療についてはある意味専門家ほどに詳しい。
「そうですね、中が膿んでしまって・・すでに骨が膿で侵され始めてしまっていますから」
「ああ・・」
それは仕方ないわ、と母親は思った。ただ、ため息がどうしても出てしまう。この子はまだ、中学を出たばかりなのに。
「じゃ、陽子ちゃん、麻酔しましょうね。ちょっとつらいと思うけど、楽になるわ。」
陽子は、大人たちの会話をぼんやりと聞いて、歯が抜かれるのは悲しかったが、楽になるならそうして欲しかった。
この頃になって少し恥ずかしくなってきた、かぶせた銀歯がなくなるのは少し嬉しい。
そうしているうちに、治療台が倒され、陽子の腫れ上がった歯茎に、何本も麻酔が打たれた。
しばらく、麻酔が効いてくるのを待つ。
「この間入れたところはどう?違和感はない?」
香代の問いに、陽子は小さな声で答えた。
「裏の味と感触がちょっと・・でも、大丈夫です。」
「ちょっと見せてね。あーん」
香代は小さく口を開けた陽子の左前歯をチェックした。1本は、裏が金属の保険の差し歯である。
このあいだの正月、休み明けに最初に駆け込んできた患者は、前歯が痛くてたまらないと泣きながらやってきた陽子だった。3日間ほど痛くて泣き続けだったらしい。救急歯科に行けばいいものだが、一度、夜間歯科治療センターで虫歯の多さを怒られた陽子は、絶対に救急歯科には行きたくないのであった。
結局、そのときは左上の1番と2番を抜髄し、歯質がほとんど残っていなかった2番は、差し歯を入れることになった。さすがに初めての差し歯に陽子はショックを受けたが、母親も兄も前歯はずらりと差し歯なので、抵抗は少なかった。それでも、ルカ以外の友人には知られないように、裏を見られないように気をつけているが・・・
「前歯の調子は良さそうね・・じゃ、そろそろ抜いていきましょう」
おとなしく口を開けた陽子の口に、ヘーベルを入れ、ぐりぐりと力を加えた。
「んぁ・・ぁは・・・」
麻酔をしたとはいえ、ドライバーのようなものを歯と歯茎の間に突っ込まれ、陽子は痛みと異物感で声を上げた。
「大丈夫よ・・」
「んぁああ・・」
「割れずに綺麗に抜けそうよ・・・」
香代と衛生士がかわるがわる励ます。母親も陽子の手を握り、顔をしかめながらも陽子を見守っていた。
ああ、ごめんね、私の歯の悪さが遺伝して・・
「ふぐぁああ・・」
「ああ、抜けたわ。よかったわ、割れなくて。」
歯は、綺麗に抜けた。上はフルメタルのクラウンで、歯根部は虫歯に侵されているのか、目で見てわかるほど黒い。
その後、中も綺麗にして、消毒して、陽子の抜歯は終了した。
「なるべくこっちで噛まないでね。」
「はひ」
麻酔と、歯が抜けた穴のせいで、しゃべりにくい。大臼歯が抜けた痕は、思ったよりも大きな空間がぽっかりと開いている。
陽子は少し動揺した。
「かあみ、みへてもらえましゅか」
手渡された鏡を見て、いーっ、と口を開けたり、口をぱくぱくしてみたりする。
案外、歯抜けなのが見えてしまう。どうしよう・・・
「大丈夫よ。1週間位して、傷が落ち着いたら、仮歯入れてから治療にかかりましょう。」
陽子の心配を読んだように、香代が言った。
「しばらくは、消毒に通ってね。前後をどうするか・・後で考えましょう。」
「はい、どうもありがとうございました。」
二人で頭を下げて、診察室を後にした。

診察時間が終わってから、香代は、陽子のレントゲンをざっと眺めた。陽子は今日で中学を卒業だそうだが、その時点ですでに抜髄済の歯が6本。6番4本と、左上の前歯に2本だ。その前歯のうち1本は差し歯だ。香代はため息をついた。
初めて陽子が香代のところへ来たのは、香代がここに開業してすぐ、陽子が小学2年生のときだった。左上の6番が痛む、とのことだった。
「なんでもっと痛くなる前に早く来ないの」
と言ってしまったが、陽子の口の中を見た香代は驚いた。
左上以外の3本の6番はすでに断髄処置がされ、大きなインレーが嵌められていた。さらに、生え変わっていない部分の歯は、すべて乳歯義歯であった。その後、母親と陽子の兄の直紀も担当するようになって、歯がひどく悪い家系なのだと知った香代は、今主流の、様子を見る治療ではなく、なるべく見つけた虫歯は即きっちり治療する方針で陽子を治療した。様子を見る方針にした直紀の歯は、成人した今年、すでに奥歯が4本が失われているが、初めて抜歯したのは3年前、17歳のときであった。
どちらが良かったのかしら・・・
香代は少し悩んだ。まだ15歳の陽子だが、6番は1本すでに抜歯、抜髄してから10年もたなかったわ・・。
カルテも眺める。クラウンが4本・・残り3本だけど・・差し歯が1本、他の上の前歯もすべてレジンであちこち治療済み、奥歯はほとんどインレーが入っている。
これからがまた一山あるわね。インレーがクラウンになって、そのうちブリッジ・・・そういえば今回のブリッジは保険のかしら・・自費にしてくれるかしらね。女の子だからね・・
陽子の歯を心配していた香代の考えは、徐々に経営者のものにシフトして行った。
陽子の家庭は裕福らしく、母親の治療はすべて自費のものであった。直紀も、高校生の半ばくらいからの治療は自費を選択してくれている。かなりのお得意様であった。

同じ頃。陽子の歯のことを考えている人間がもう一人居た。
痛いのは右下って言ったっけ・・どれだろ?
A4サイズのスケッチブックに、精密に描かれた歯の絵。歯式図のように上下の歯列を描き、そこに、銀色のペンでかなり正確にインレーの形や位置も書き込まれており、右下には中3ー1月20日、とある。
さらに前歯については表から見た面と裏から見た面の2面が描いてあり、左上2番にあたる歯の裏面は黒く塗りこまれている。
右下・・・6番がフルクラウンで・・他の3本がインレー・・どこかの2次齲蝕かなあ、特に黒くもなってないけどなあ。正月明けの時点では、だけど。
ルカは考え込んだ。
実際に陽子は大事な友達で、心配なのだが・・歯に関して言えば、邪な興味が先に立つというところだった。
後で直接聞いてみよっと。ああ、そろそろ新しいスケッチブック買わないと。陽子は移り変わりが速いから。ちょうど高校だし、キリがいいね。
ルカは、スケッチブックをパタン、と閉じ、大事そうに表紙を撫でると、それを「陽子vol.3」と書かれたスケッチブックの隣にしまった。

トゥルルルルル・・・トゥルルルルルル・・・
陽子の母親は、パタパタ、とスリッパの音を鳴らして台所から階段の横にある電話に走り、受話器を取った。
「はい、近藤でございます・・ああ、ルカちゃん。今日はありがとうね・・陽子、歯医者さん行ったわ。ちょっと待ってね、替わるわ。」
電話を保留にして、陽子を呼びに行く。
「陽子ちゃん。ルカちゃんが心配してお電話くれたわよ・・」
「はーい」
陽子は、まだ少し痛む抜歯痕と、歯を抜かれた悲しさを抱えて少し横になっていたが、ルカからの電話と聞いて、嬉しくなって起き上がった。ルカは同級生だけれど、お姉さんみたい。背が高いせいもあるかもしれないけど・・・それ以上に、お姉さんみたいに優しいから。真っ白い歯がまぶしくて、綺麗で、陽子はいつも見とれてしまう。ああ、私も、こんな綺麗な歯だったらいいのに。でも不思議と、ルカの前では、自分の歯の悪さにコンプレックスを感じずにすむ。ギラギラしていて、あまり他の子に見られたくない銀歯も、ルカになら見せられる。キラキラして綺麗だよ、って言ってくれるから。歯医者さんに行って、治療が辛かったときも、ルカに話すとホッとする。どんなふうにされたの、って優しく聞いてくれて、痛かった治療の痕を見て、頑張ったね、って褒めてくれるんだ・・・早くルカに聞いてもらいたい・・・
「もひぃもひぃ」
陽子は飛びつくように電話に出た。長くしゃべるつもりで、床に座る。まだちょっと麻酔が残ってるかも・・
『陽子、大丈夫?まだ麻酔残ってるの?』
ルカの落ち着いた声が聞こえてくる。やっぱりルカはわかってくれる・・・。
「うん・・そうなの・・・ちょっと、たくさん麻酔打たれたから・・」
『そっか・・痛みは?楽になった?昼間、いつもより辛そうだったから・・・ちょっとそれが気になって・・・』
陽子は、嬉しさで涙が滲んできそうになった。
「うん・・歯が痛かったのは・・もうだいじょうぶ・・なんだけど・・」
口ごもった陽子のことを、ルカはやっぱり心配してくれる。
『でも、何?痛いことされたのか?麻酔たくさん打たれたって。だいじょうぶ?』
「ん・・ん・・・う・・うぅ・・・」
ルカの心配そうな暖かい声を聞いて、陽子の胸の中で、今日、歯を抜かれてからずっとじわじわと膨らみ続けていた悲しみが融けて溢れ出た。
『・・陽子?』
「んっ・・歯・・私の・・歯・・歯がぁ・・」
抜かれた、という言葉をすぐに口にできるほどには、まだ抜歯の事実を受け入れられていなかった。
『陽子・・・』
電話の向こうのルカは余計なことは言わなかった。陽子はルカがあの優しい目で見てくれているような気がして、小さく深呼吸をすると覚悟を決めた。
「私の・・歯・・・抜かれちゃった・・・なくなっちゃったの・・・ぅ・・うっく・・」
言ってしまうと、気持ちが軽くなると同時に、溜まっていた悲しみも涙として外に出てきた。
『よしよし・・』
「ん・・んっく・・う・・ひっく・・・」
泣いている陽子には、ルカの声が少し上ずったことに気付く余裕は無かった。
『ん・・じゃあ・・明日の買い物はムリかな?』
そうだ。明日は一緒に、スキーの買い物に行く約束にしていたのだった。
・・どうしよう・・スキーも行かれるかどうか・・でも・・
「わからないの・・スキー・・行かれるか・・・ぅっく・・でも・・ルカには会いたいな・・・ひっく・・・」
『そっか。じゃ、普通に家においでよ。何時?』
「歯医者さんに1時半に行くから・・消毒だけだから・・ひっく・・・たぶん2時くらいには終わって・・・2時半くらいに行く。」
『ん、わかった。スキー行っていいかどうか、聞いておいでよ?』
「そ、そうする・・ぅっく・・、ありがとうね・・」
2人は電話を切った。
陽子は、泣いてはいたが、さっきよりも気持ちが軽くなり、やっぱりルカはお姉さんみたい、とあらためて思っていた。
電話の向こうでは・・膝の上にスケッチブックを広げたルカが、コードレス電話の子機を床に下ろすと、歯式図の右下の6番の上に、大きく×をつけ、中3・3月20日、と書き入れていたのだった。

翌日、陽子は歯科の治療台に居た。
午後2時からはじまる午後の診察時間の前に入れてもらった予約だ。
座って、エプロンを着けてもらうと、すぐに香代がやってきた。
「どう?痛みは無い?」
「あ、もう、大丈夫です。」
腫れもずいぶん引いたようだ。香代は、陽子が思ったよりも落ち込んでいないのでホッとしていた。
・・陽子ちゃん、けっこうタフね・・
「じゃあ、消毒しましょうね」
倒された治療台の上で、陽子はおとなしく口を開けた。年間を平均すれば、週に1回は歯医者に来ているはずの陽子である。いったい、この上で何度口を開けたことだろう。
「ん・・抜いた後は綺麗ね、縫う必要もないわ。」
ドライソケットも起こしていない。香代はそのまま、消毒薬を綿につけ、ちょんちょん、と傷口を消毒した。
「はい、ここはいいわ」
・・「ここは」?
陽子は、香代の言葉に、へっ?と思った。たしかに、消毒が終わっても、治療台が起こされる気配が無い。そして、カチャカチャと衛生士がトレイに何か並べている。
「ちょっとレントゲンで見て気になるところがあるの。見せてね。」
そう言って、香代がミラーと探針を手にこちらを向いた。
・・気になるところがあるって・・
歯科医がそう言うとき、それは間違いなく新しい虫歯がある、ということだ。陽子にとってはいまさら珍しいことでもないが、やはり少し不安な気持ちをかかえながら、あーん、と陽子は口を開けた。
香代の指が陽子のまだ子供の柔らかさの残る唇を右上に少し引っ張る。6番に入っているフルクラウンがライトを浴びてギラリと光った。4番のインレーも小さいながらもギラリと存在を主張する。香代が手に持ったミラーは、その間にある、5番を映していた。
カリカリ・・カリ・・・
探針は、茶色から黒っぽく色づく溝を掻いた。
「んは・・」
微かな痛みに、陽子が顔をしかめて声を出す。
香代はさらに目を細め、4番との境目から歯が黒ずんでいるのを見ると、探針を舌側の歯間、歯の生え際から入れて、少し指先に力を込めて引っ掻いた。
「んぁいっ・・!」
探針の先が隠れていた虫歯の穴をとらえ、鋭い痛みが陽子を襲う。陽子は思わず声を上げ、背中を反らせた。
同時に、内部から侵され、薄くなっていた5番の近心側のエナメル質が砕け、茶色い虫歯が姿を現した。
「んー・・陽子ちゃん、やっぱり虫歯できちゃってるからね、治療するわよ・・・けっこう大きいわ・・」
最後は呟くように言って、香代は、探針をカチャリ、とトレイに置くと、その隣のスプーンエキスカベータを取った。
コリコリ、コリ・・・
「ふぁ・・んぁ・・・あふ・・・」
陽子が顔をしかめ、顎を上げて痛がる。
「ちょっと厳しいか・・シンマくれる」
香代は、陽子の歯に集中したままで衛生士に指示を出した。
すでにトレイに用意されていたシリンジを、衛生士は香代に手渡した。
「チクッとするわね・・神経までは行ってないからね・・」
言いながら、外側と内側の2ヶ所に手早く浸麻を打ち込んだ。
再び、エキスカベータで削り取った後、タービンのバーを選び、ヒュィイイイイイ・・・と齲蝕部分の切削に入る。
午後の診療が始まり、周囲は少しざわざわし始めた。
チュィイイイ・・・チュィイイイイ・・・
ときどき、痛みが走るのか、ピクッ、と陽子が反応する。
チュイイイ、チュイチュイチュイイイイ・・・
スココオココオオオオオ
キュィイイイイイイイ・・・・・
陽子の体に少しずつ力が入り、顔が苦しそうに歪み始める。
子供の頃から多くの治療を経験している陽子は、声を出さずに痛みに堪える方法を知っているが、体はかなり正直だ。
・・ああ、陽子ちゃん、痛そうね・・でも頑張ってね・・・
キュィキュィキュィイイイイイインンン
「ん・・んぁ・・・」
ヒュゥゥゥゥウ。
さすがの陽子も喉の奥から呻き声を漏らし始めたころ、タービンが止まった。
「はい、いいわ、陽子ちゃん。お口ゆすいでね」
治療台が起こされ、陽子は口から水をこぼしながら口を濯いだ。
いつも通り舌で削られたところを探ると、舌側の面、歯の前半分は無くなっていた。4番と接していた面も無くなっているようだ。
陽子は、削り取られたところに舌をぎゅぅぅ、と入れ、舌が吸い付くような感じを楽しみながら、治療台に戻った。
衛生士に促されて口を開け、エアーを吹きかけられ、印象材を噛まされながら時計を見ると、2時10分を示していた。
・・・あ・・ルカのとこ・・・行くのに・・・
少し焦る気持ちで、しかし取り直しになっては時間がかかってしまうので、印象トレイをしっかり噛み続けた。
衛生士が印象トレイを外しに来て、治療台を倒して行き、陽子はもぞもぞしながら香代を待った。
・・先生・・はやくぅ・・・ルカが・・心配するから・・・
すでに陽子の頭の中は、ルカのことでいっぱいだ。
・・ルカ・・また、新しい虫歯できちゃったよ・・・
虫歯ができてしまった悲しい気分は、ルカに心の中で告白することで少し軽くなるのだ。香代がやってきた。陽子の少し悲しそうな顔に気付いたのか、微笑んでくれる。
「陽子ちゃん、お口開けてね」
いつも通り、白い仮封がされ、もう一度抜歯痕の消毒薬をつけてもらって、予定より長い治療は終了した。
「えーと、今日は右上に虫歯が見つかって治したから、右ではあんまり噛まないようにね。まあ、抜いたところもあるから大丈夫だろうけど。」
「はい」
「次に消毒に来たときに、もう一本気になるところ・・あーんしてね・・・ここ、左下なんだけど・・ああ、やっぱりやられてるわね、ここの虫歯の治療して、あと、抜いたところの仮歯作りましょうね。」
香代はさらなる虫歯を宣告した。
「はい・・あ、あの、先生。」
陽子は大事なことを思い出した。
「なあに?」
「来週・・お友達の別荘に、スキーに行きたいんですけど・・行ってもいいですか?」
少し必死な陽子の様子に、香代は微笑んだ。
「もちろん、いいわよ。楽しんでいらっしゃい。ああ、じゃあ、それまでに、仮歯入れないとね。」
中学生やそこらの女の子が歯抜けでは、友達と遊べないだろう、いじめられたりするかもしれない、と香代は心配したのだった。
「よかった!」
陽子は嬉しそうに笑った。6番3本の大きなクラウンを光らせ、右下6番の欠損を見せて。
・・高校生でこれは、女の子だし、そろそろ気になるわよねえ・・それにブリッジだから、おそらく5番からクラウンになるのよ、困るわよね・・自費にしてくれるかしらね・・・
香代はそんなことを思いながら、陽子を送り出した。

「たいへん・・もう2時半になっちゃう・・」
会計も済ませ、歯科医院を走り出た陽子は、公衆電話に向かい、テレホンカードを入れると、急いでルカの家の電話番号を押した。
『アら・・陽子チャン。ちょっと待ッテネ・・・』
オランダ人のルカの母親が出た。日本語はペラペラだが、ちょっとぎこちない。
『陽子、どうかした?』
ルカだ!
「あのね、先生が、スキー行ってもいいって。」
嬉しかったので、思わず用件よりも先に言ってしまった。
「あ・・れんわしたのは、それいゃなくって・・・」
『スキーは良かった、けど、どうしたの陽子、また虫歯か?』
・・ルカはなんでも気付いてくれる・・・
「そうなの・・れ・・今やっと終わって・・らから、ちょっと遅れるね、ごめんね。」
『いいよ、気をつけておいで。待ってるよ。』
「うん!」
ピピーッ、ピピーッ、ピピーッ。
電話を切り、吐き出されたテレホンカードを取ると、陽子はルカの家へと急いだ。
一方、ルカは、またスケッチブックを取り出し、今度はどこが虫歯だろう、と楽しく想像した。
・・ま、来れば分かることだし。しかし、面白いように虫歯になっちゃうね、陽子は・・・さすがに可哀想になってくるよ・・・
ルカはスケッチブックを閉じて、棚に戻すと、パタン、と扉を閉じ、鍵をかけた。

15分後、陽子はルカの家の大きなドアの前に居た。
ガチャリ。
ドアを開けて、ルカが両手を広げて出迎えてくれる。
「ルカ!」
「よーし、良く来た。ハグハグ。」
陽子は、ルカの胸にギュッと抱き締められた。
オランダでは普通だよ、ってルカは言うけれど、学校では、みんなにレズっぽい、って言われちゃうから、ハグはしないんだ。でも、こうやって家で会うときは、ハグハグしてくれる。ルカはボーイッシュだけど、ハーフ、だからなのか、けっこう胸はやわらかくって・・・落ち着くの・・あれ・・ナミダ・・出てきた・・・
一方、ルカは、陽子を抱きしめると、大きく鼻から息を吸い込んだ。
・・ああ・・この・・髪に染み付いた歯医者の匂い・・・ずっと嗅いでたいくらい・・・ん?
「どうした陽子、痛い?」
陽子の涙に気付き、ルカはあわてて身体を離して聞いた。
ぷるぷる、と陽子は首を振った。
「わかんないの・・なんか勝手に・・」
ちょうど、ルカの母が奥から出てきた。
「あ・・こんにちは。おじゃまします。」
陽子が頭を下げる。
「ようこそ。陽子チャン、また歯医者サン行ったッテ?まだ痛いノ?」
「いえ、もう大丈夫です・・ありがとうございます。」
「ヨカタ・・」
「・・ま、いいよ、部屋行こう。」
「うん」
「おやつは、あとで降りて来て食べるから!来なくて良いよ!」
「ハイハイ」
ルカはさっさと階段を上っていってしまい、陽子はもう一度、ルカの母に軽く会釈すると、ルカの後を追って、2階へ上がって行った。

パタン。
ドアを閉めると、陽子はルカと部屋に2人きりになった。ベッドの上に向かい合って座ると、少しドキドキする。
・・早く・・口開けてごらんって・・言って・・
せがむような目をした陽子とそれを受け止めるように見つめ返すルカとの間に、じりじりするような沈黙が流れる。
ふいにルカの指が、陽子の右頬に触れた。少しまだ赤みの残るあたりをその細い指先でそっとなぞったあと、人差し指と中指の背で優しく撫でてやる。
「まだ少し・・腫れてるな・・痛いか?」
静かな声で聞くルカに、陽子は黙って首を振った。
「それならよかった」
少し微笑んで言いながら、左手を陽子の右頬を包み込むようにあてがう。
「見せてごらん」
陽子はその言葉を待っていたとばかり、抵抗もせず、ゆっくりと目を閉じ、少しずつ上を向くようにしながら口を開けていく。
・・早く・・見せて・・・
ルカは高鳴る鼓動をゆっくりした呼吸でなんとか抑えながら、左手を少しずつ下にずらし・・親指で下唇の真ん中辺りを少し押すようにして陽子が口を開くのを手伝った。
・・あぁ・・
右下に燦然と輝いていたはずのクラウンは無くなり、赤く腫れた歯肉にぽっかりと穴が開いて血のかたまりのようなものがヌラリと光っているだけだった。
吸い込まれそうなほどにその穴を見つめていたルカは、その穴に空いている右手の指を突っ込みたい衝動に駆られ、あわてて右手を自分の腿の下に入れて押さえ込んだ。
「痛そうだ・・頑張ったね、陽子・・」
なんとか喉の奥から少しかすれた声を搾り出すと、陽子は少し目を開けた。少しその目が潤んでいる。
「他にも・・虫歯があったんだっけ・・」
「ん・・うえ・・」
口を開けたまま、陽子が自分の右手で天井を指した。
「どら・・」
陽子の右頬に添えたままの左手・・親指で少し顎を押して上を向かせる・・と、少し興奮しすぎて力が入りすぎたらしい。
「あ・・」
下がフカフカしたベッドだったこともあり、陽子はバランスを崩して後ろに倒れ込んだ。とっさに右手を出して陽子を支えようとしたルカもその後を追うように倒れてしまった。
「んふふ・・」
「ふふ・・・」
2人は起き上がらず、そのままふたりで向き合って寝そべる格好になり、ふと可笑しくなって、顔を見合わせて笑いあった。
陽子の3本のクラウンが光り、またルカの胸にざわざわと波が立った。
「で・・どうだった?痛くされなかった?」
笑顔から急に深刻な顔になったルカにつられるように、陽子の顔からも笑顔が消えた。
「痛・・かった・・・気になるところがあるから・・見せてって・・・言われて・・口開けたら・・コリコリされて・・・やっぱり虫歯ねって・・・」
ぽつりぽつりと陽子が語り出す。いつもの立っているときと違い、少し下から陽子を見上げるような格好になっているルカは、その口元をじっと見つめ、めったに見られない、前歯の裏がちらちらと見え隠れする様子を目に焼き付けた。
「・・それで?」
なるべくさりげなく聞きながら、ルカは、鼓動に合わせて勝手に脈打ち始めた下半身を抑えるように、下になっている右脚を自分の左脚に絡め、きゅっと力をこめる。
「もっとコリコリされて・・すごく痛くて・・その後は麻酔してもらったんだけど・・でも・・まだ痛かったし・・いっぱい削られちゃった・・」
陽子の目に溜まった涙があふれそうになっている。ルカは左手を伸ばし、また陽子の右頬にあてた。一瞬視線を交わすと、何も言わないのに陽子は口を開けた。
親指で陽子の上唇を優しく押し広げる。6番のクラウンの前で、5番の仮封が鮮やかに白い。
「がんばった・・ね・・」
ルカは両脚をさらにしめつけながら、陽子を褒めてやった。声が少し震えていることに少し焦ったが、陽子はしゃくり上げ始めていて、気付いてはいないようだった。
「よし、よし・・」
少し頭の方に這い上がって、陽子の頭を抱いて撫でる。陽子の髪からの歯医者の匂いに嗅覚も刺激され、ルカは陽子の頭を抱く腕に力を込め、プルッ、と痙攣すると、身体の奥からふぅぅっ、と息を吐いた。心地よいだるさが体中にさざなみのように広がる。
・・話を聞いてる間からこんなに興奮したのは初めてかな・・・
ルカは満足感の中に浮かんでいるように感じながら、陽子の身体をゆっくりと離し、今度は両手で陽子の顔を包んで笑顔を向ける。
「次はいつ行くの?」
「しあさって・・今日治したところに銀歯つめてもらって・・あともう1本虫歯があるって・・言われたの・・だからそこも治してもらうの」
・・まだあるの!
「左下だって・・」
ルカが聞く前に、陽子は自分で言って口を開けた。
左下・・左下はたしか、いちばん虫歯の少ないエリアだ。ルカは頭の中でスケッチブックをめくった。6番がフルメタルのクラウンで・・7番が生えたばかりの去年治療したレジン。小臼歯は2本とも無事だったはずだ。
右手の親指で少し唇を広げるようにして覗き込むと、、5番の溝が、くっきりと黒い。
「ん・・虫歯・・みたいだね・・でも、きっと、そんなに大きくないよ。大丈夫。」
言いながら、頭を撫で、さらに続ける。
「歯・・抜いたところは?」
「えっと・・そのしあさってに行ったときに・・型を取って、仮歯作ってもらうの。スキーの前の日に入るはずなんだ・・」
陽子は少し嬉しそうな顔になった。
「そうか・・」
ルカも目を細める。と・・
グ、キュルル・・
ルカのお腹が不満を訴えるように鳴った。。
「ふふ、お腹、空いてるの?」
2人はまたなんとなく笑い合い、二人で支え合って起き上がった。
「お、や、つー」
言いながら先に部屋を出て行くルカを見て、このときだけはルカも子供みたい、と陽子は微笑んでいた。

ダイニングに入ると、テーブルの上にお茶の準備がされていた。
いつも、ルカの母親の手作りだ。今日は・・チョコレートケーキ。
おやつもおいしくて嬉しい、と言いたいところだが、陽子は唯一、このルカの家でのおやつが少し苦手だ。ガイコクの味・・早い話が甘過ぎるのであった。ジャリジャリ砂糖の音がするのではないかと思うほどに。
「陽子チャン・・コヒー?お茶?」
母親が聞いてくれる。
「あ・・お茶・・お願いします。」
答える陽子に、
「子供だなあ、陽子は。これにはコーヒーが合うんだぞぅ。」
とルカが笑いながら言い、自分のコーヒーに角砂糖を・・3つ入れてスプーンでかき回した。
・・こういうとこを見ると、やっぱりガイジンだなあ、ルカは。
と、陽子は心の中で思っていた。
その後は、スキーに持って行くものや計画など、あれこれルカの母も交えて相談した。旅行に行く前の相談というのは楽しい。

「じゃあ・・向こうでね!」
帰るというとき、玄関まで送りに出てきたルカに、陽子は手を振った。
ルカは明後日から、先に別荘に行ってしまうのだ。
「うん、またね。歯医者がんばって!」
夕日を浴びて笑顔を見せたルカの歯が白くキラキラと・・あれ?ちょっと色が違うところがある?
陽子は目をこすった。
「どうした?」
「ううん、なんでもない・・じゃあね!」
陽子は手を振って、歩き始めた。
光の当たり方だよね。奥歯の溝もちょっと黒く見えたところがあったけど・・影。それか、おやつのチョコケーキが付いてるだけ。ルカが・・あのルカの綺麗な歯が、虫歯になんかなるわけないもん。歯が悪い私を慰めてくれるルカは、虫歯になんかならないもん。
陽子にとって聖なる存在に近いルカに、自分のような虫歯があったりしてはいけないのだ。そして、バスに向かって走り出した陽子は、なんとかバスに乗れたときには、もうそんな小さなことは忘れてしまい、来週の楽しいであろうスキーに思いを馳せていたのだった。

3日後。診察時間が始まる少し前に、陽子はまた歯科の治療台に座っていた。
「陽子ちゃん、おはよう。」
衛生士が、トレイに陽子のインレーが嵌った模型を置きに来て、にっこりと挨拶していった。
「おはようございます。」
挨拶に答えながら、陽子は横目で、もう少ししたら自分の歯の一部になるその金属片を見た。わりと小さい。しかし陽子は、模型の上にあるインレーは、口の中に入ると存在感を増すことを知っている。
周囲の治療台では患者を迎え入れる準備が進められている中、陽子の治療台には香代がやってきた。
「おはようございます。」
「おはよう、陽子ちゃん。今日は、まずこの銀歯をはめてから、下の抜いたところに仮歯を入れる型、取るわね。ああ、あと、左下なんだけれど。」
「はい」
何を言われるのだろう。陽子は少しドキドキした。歯のことで何か言われるのは悪いことに決まっている、というある種の諦めがある。
「まだ右も落ち着いていないでしょう、そこに左側にも治療中の歯があったら、困るかなって思ったの。だから、そこは後でもいいわ。」
意外にも、それは悪いことではなかった。しかし、少し不安も感じた・・
「あの・・治療を後にしたら・・虫歯が進んじゃったりしませんか?」
香代はにっこり笑った。下の奥の方の奥歯の間から、金色の詰め物がキラリと光る。
「大丈夫よ、ほんの1ヶ月くらいだから。」
「そうですか・・よかった。」
陽子もつられるように、にっこりした。ギラギラと銀色のクラウンを光らせて。
「じゃあ、はめるわね・・」

2日後、陽子の抜歯した右下6番の後に、仮歯が入った。
それは思っていたよりも自然で、しかも久しぶりに銀歯でない歯が戻ってきたことがうれしくて、陽子は鏡の前で口を開けたり笑ったりしてみた。
・・はやくルカに見せたいな・・・
陽子は、翌日の再会を待ちわびながら、ベッドに入った。
そして、陽子の右下6番と入れ替わるように、再会したルカの右下6番が銀クラウンになっている・・・という夢を見て、陽子はうなされた。

さて、翌日。母親に新幹線のホームまで送ってもらった陽子は、2時間後、到着した駅でルカの出迎えハグを受けた。
「よく来たね」
「んー、さむーい」
陽子は、当たり前ではあるけれど、夢で見たようにルカの右下6番が銀歯になっていないことを確認してホッとしながら、ぱふ、とルカのダウンジャケットの肩に顔をうずめた。
「歯は?入れてもらった?」
ルカの家に着き、ルカの部屋に落ち着くと・・客用の寝室もあるが、ルカの部屋に泊まることにした・・さっそくいつものように、陽子は口を開けて見せた。
「うん。思ったより綺麗なの。仮の歯だけど・・・」
「おお、ホントだね。でも、仮ってどういうこと?この後どうするの?」
ルカはもちろん、抜歯後の治療がどうなるか知っている。が、少しいじめたくなっただけだ。案の定、ルカにほめられて、一瞬陽子は笑顔を見せたが、ふっと顔を曇らせた。
「ブリッジっていうのにするの・・前と後ろの歯にくっついた・・」
「それって・・いれば?」
ルカは心配そうな顔を作って聞いた。陽子がつらそうに顔を歪めて答える。
「ち・・違うの。入れ歯じゃないの。かぶせる・・銀歯みたいな感じなの。でも、色は白くしてもらうかも・・じゃないと、この前の歯から銀歯になっちゃうって・・」
ルカはうつむいた陽子の下唇に手を伸ばし、右下に引っ張って陽子の右下の奥歯をながめる。
「ん・・きっとここから銀歯でも綺麗だよ。でも、それじゃ気になるよね、ごめんね。でも、今の仮の歯、綺麗だよ。」
ルカの言葉で、陽子はほっとしたような顔に戻った。フォローが大事なのだ。

昼間はスキー、夜は2人でお風呂に入って、ルカの家族と鍋料理を食べて、飽きるまでおしゃべりして・・
そんな楽しい日が3日続いた次の日・・・

「今日はすごくいい天気だねぇ」
朝食を取りながら、陽子が呟いた。木立に囲まれた家の中でも明るさが感じられる。
「だなあ・・ねえ、今日はちょっと上まで行ってもいい?」
ルカが父親の顔を見た。上のコースは行ってはいけないと言われて、2人は3日間ずっと中級者コースを滑っていたが、ルカは毎日、『上行ってみたいなあ』と見上げていたのだった。
「んー、まあ、そろそろいいか・・よし、お父さんも一緒に行こう。で、うまく滑れそうならいいぞ」
ルカの父親は承知した。
「やったね」
そうして、3人はスキー場に足を向けたのだった。到着すると、ここ数日で乗りなれた中級者コースのリフトではなく、隣の長いリフトに乗り込む。
二人乗りだ。
陽子はルカと2人で乗り、ルカの父親は一つ後ろに乗り込む。
「ちょっとドキドキするなあ・・ちゃんと降りられるかなあ。」
「陽子は上手だよ。大丈夫。」
「でも私、怖がりなの、うーん、ドキドキしてきた。」
いつもよりリフトも少し高い。二人は少し興奮しながらリフトが終点に着くのを待った。

リフトを降り、陽子が深呼吸して心の準備をしていると、ルカは
「お先にぃ」
と声をかけ、さっさと滑り降りて行ってしまった。
「あ、ちょっと待っ・・」
と言いかけると、後ろからルカの父が苦笑いしながらやってきた。
「しょうがないなルカは・・陽子ちゃん、一緒に行こうか。」
下から見上げた彼の上の前歯の裏はずらりと黒かった。奥歯にも光るものがいくつも見える。
・・ルカとお母さんは綺麗な歯だけど、お父さんは、虫歯、けっこうあるんだ・・
陽子はそんなことを思ったあと、あわてて返事をした。
「あ、はい・・」

ルカの父の後ろから、同じコースをなぞるようにして滑り始めた陽子は、しばらくして、ゲレンデの脇に、ルカに良く似たウェアのスキーヤーが座り込み、さらに二人ほどがしゃがみこんでいるのを見つけた。
・・ルカ?
父も同じことを思ったらしい。ちら、と陽子のほうを振り向くと、そちらに向かって滑って行った。陽子も後を追う。
「い、いらぁ・・」
近づくと、ルカの泣き声が聞こえてきて、陽子はすぅっと顔から血の気が引いていくのを感じた。
「ル、ルカ!」
父親も少し青ざめた顔になって、娘の名前を呼ぶと、周囲に居た男女が振り向いた。
「あ、お知り合い・・お父さんですか?」
女性のほうが尋ね、父は悲愴な顔で頷いた。
「あの・・何が・・怪我でも・・」
「そこのコブをよけようとして滑ったみたいで。ちょうど見てたんですけど、頭なんかは打ってないと思います、でも・・あの・・歯が・・」
男性のほうが答えるのに合わせるように、ルカが涙に濡れた顔で振り向いたが、半開きになった口元から、白い歯は覗いていなかった。
「は?」
と聞き返しながらも、頭は打っていないと聞いて少し安堵したルカの父の横で、陽子は頭がくらくらするほどのショックを受けていた。
・・歯・・ルカの・・白くて綺麗な歯が・・・
陽子は、ルカを取り囲む大人たちの輪の外で、崩れるようにしゃがみこんだ。すると・・雪の上に少し赤いしみを見つけた。よく目を凝らすと、キラリと光るものが落ちている。
・・歯だ!
陽子は右手の手袋を外し、その光るものを摘み上げると、大事そうに左手の手のひらに乗せ、見つめた。間違いなく、ルカの歯だ。真っ白で、キラキラして、きれい。少し見回すと、もうひとつ、小さなかけらも見つけた。それも摘み上げたが、よく見てみると、端の方が黒く・・茶色く色付いている。
・・ちがう!
陽子はとっさに、その小さいほうの欠片を雪の上に捨てた。
・・ルカの歯は・・真っ白じゃなきゃいけないんだもん・・・

立ち上がると、ちょうど大人たちの輪が解けた。
「落ちて・・た・・」
陽子は、なんとなくルカの顔をしっかり見られなくて、誰にともなく、左手のルカの歯を見せた。
「ああ、ありがとう陽子ちゃん。これから下に降りて・・歯医者さんがあるらしいから、付けてもらえるか聞きに行こう。な?」
父親が、ルカの顔を覗き込むようにして言った。
「痛い・・よね・・いつも慰めてもらってるから・・今日は私に甘えてね・・」
歯が折れると、むき出しになった神経に風や唾液が当たるだけで痛いのだ。乳歯のころ、虫歯で脆くなった歯が折れた経験のある陽子は、泣いているルカの顔をじっと見た。左上の1番が折れて・・2番は欠けているようだった。

30分後、陽子たちは、すぐそばの歯科診療所の診察室に居た。陽子が拾った歯は、ひとまず無事にルカの左上1番に戻った。
「まあ、うまく付いてくれるかどうかわかりませんがね・・時間もそれほど経ってないし、若いし、大丈夫じゃないかと思いますね」
担当の若い歯科医が言い、一番ホッとしたのは、もしかすると陽子かもしれなかった。治療台の上に横たわるルカも痛みがなくなって、泣き止んでいた。
「その隣だけど・・どうしようかな、プラスチックで形整えられるんですがね・・自宅に帰られるなら、そちらでちゃんと治された方が、いいかと思いますね」
歯科医のの言葉に、父親が口を開いた。
「でも・・ここで治してしまっていただければ、と思いますが」
歯科医はちら、と父親を見、ルカを見て、少し冷たい目になって言った。
「でも、どうせ歯医者に行くでしょう。というか行かないとダメでしょう。」
不思議そうな顔をしている陽子を含めた3人に、歯科医は続けた。
「・・・虫歯は、自然には治らないんだから。」
衝撃の宣告に、ルカは治療台の上で少し眉間に皺を寄せ、陽子はショックで青ざめ、父親は目を瞬かせながら聞いた。
「この子・・虫歯・・ありますか。」
「ええ、ありますね。きちんと見たわけではありませんけれども。見えましたから。欠けてる歯も虫歯になってますね。だからきちんと、虫歯の治療も含めて治されたらと言ったんです。」
歯科医は即答した。
・・そういえば・・欠片・・茶色くなってた・・・虫歯・・だったんだ・・・
陽子は、さっきゲレンデで捨てた歯の欠片のことを考え、ルカの歯に虫歯ができているという事実に、どうしていいかわからずに居たのだった。

3人がなんとなく無言のまま家に戻ると、ルカの母はお茶の用意をして待っていた。
「どう・・痛かった?見せテ・・」
「ここは陽子が拾ってくれたから元に戻ったんだよ」
ルカが言い、母親は陽子に向かって、アリガトウ、と微笑んだ。
陽子は嬉しくなって、微笑み返しながら目を伏せた。
「でも・・トナリはどうしたの?」
ルカの欠けたままの歯を見て、母親が怪訝そうに父親のほうを見た。ルカはその横で、いつものように、コーヒーに砂糖をポコポコと放り込んでいる。
「そこは帰ってからきちんと歯医者に行きなさいって言われ・・ルカ、そんなに砂糖入れるのやめなさい!」
父親が、少しイライラしたように声を荒立て、食卓に微妙な空気が流れた。陽子も、ルカが虫歯があると聞いた今、砂糖をたくさん入れるのが心配だった。
「・・いいでしょ別に」「いいじゃナイ」
ルカと母親が同時に言い、二人は顔を見合わせて笑った。
「良くない・・ルカ、虫歯があるって言われたんだぞ・・今まで無かったのに・・・だから甘いものはそんなに・・」
陽子が見たことがないほど険しい顔をしたルカの父だったが、母親は笑って答えた。
「あら。じゃあ虫歯は治さないとネ。でも、甘くないとオイシクナイし、それはいいじゃナイ。」
「そうだよ、砂糖やめたら治るわけじゃないんだし。」
「・・そうよねぇ」
陽子は、二人が虫歯について深刻になっていないことに驚いた。ルカの虫歯にショックを受けているのは、虫歯の多い自分とルカの父親だけらしい。その父親は黙ってムッとした顔をして二人のやり取りを聞いていたが、ぷっ、とふきだした。
「それは屁理屈だろうが・・ま、それにしても入れすぎだと思うがなあ・・ほどほどにな。」
言いながら、父親は椅子から立ち上がり、ふと思い出したように陽子に言った。
「そうだ、陽子ちゃん、歯医者さんにはよく通ってるんだったね?今度ルカも連れて行ってくれるかな?」
「は・・はい。」
陽子は頷いた。ルカが少し目を細めて陽子を見ていることには気づかずに・・
・・陽子の・・歯の治療が見られる!?
ルカの母親が陽子の母に事情を話し、陽子の母が香代に連絡を取り、ルカと陽子の治療は、3日後の診察時間の最後と決まった。

さて、その3日後。ルカと陽子は、ヒュィイイン、というタービンの音が診察室からかすかに漏れる中、待合室に座っていた。
陽子は、ルカが少し無口なのを心配していた。ときどき目を閉じて深呼吸したり、足を組み替えたり、少し落ち着かない。
・・ルカ、歯医者さん怖いのかな・・
陽子が心配してルカの顔を覗き込むと、ルカはへへっ、と微笑んだ。欠けた歯がちらりと見え、陽子は落ち着かない気分になった。
・・ルカの歯が、綺麗に治りますように・・
当のルカはというと、実は、怖いわけでも緊張しているわけでもなく、さっきまで待合室に居た、近所の中学校の制服を着た、図書委員でもしていそうなおとなしそうな女の子と、もう少し背が高ければモデルにもなれそうな男子高校生が、今まさに診察室で治療を受けていると思うと、おちおち座っても居られないのであった。ルカは男女関係なく、若くて顔がそこそこ良くって口の中には虫歯、という状況に魅かれるのだ。
・・でも、後で陽子の治療が生で見られるんだしね。我慢我慢。
そう思った矢先に、診察室から、「ぁぁぁんんっ」という女の子の泣き声が聞こえてきて、ルカはまた目を閉じ、大きくため息をついてしまった。
「大丈夫だよ、ルカ、怖くないよ」
陽子は心配でたまらなくなり、手をルカのひざの上に載せてルカの顔をじっと見た。
泣きそうな顔で心配してくれている陽子に、まさか、興奮していると言うわけにもいかず、ルカは小さく、「ありがと」と呟いた。

ほどなくして、女子中学生が頬を押さえて、赤い目をしてうつむきながら診察室から出てきて、入れ替わりに二人は診察室に呼ばれた。ルカは、診察室に入った瞬間に、目で男子高校生を探し、まさに歯を削られている最中の彼をじっと見つめる。声こそ上げていないが、綺麗な顔をかすかに歪め、ときどき、びくっ、と足の先を動かすのがたまらない。
あまりにじっと見ていて、小さな面談用テーブルに案内されたことに気付かず、陽子に袖を引っ張られてしまった。
「い、いたそうだね・・」
と、少し怯えたような顔を作り、陽子と並んで面談用の椅子に座りながら言うと、
「大丈夫だから。ルカの歯・・・そんなにひどくないはずだから。」
と、陽子は一生懸命に慰めてくれた。こくこく、と頷き返しながらも、ルカの頭の中はこれから始まる陽子の治療シーンでいっぱいになった。
・・でも、それより、陽子は今日、何されるんだろ?左下だっけ?それとも、ブリッジの準備かな・・・
そうこうしているうちに、男子高校生の治療も終わり、香代が手を拭きながら、二人のほうに微笑みながら近付いて来た。
「こんにちは、陽子ちゃん。えーと、ルカちゃんね。はじめまして。」
「はい・・よろしくお願いします」
お行儀良く頭を下げながらも、ルカの目は香代の下の奥歯の間の金インレーをとらえていた。
・・ちょっと年がいきすぎてるんだけど。でも、金もなかなかエレガントでいいね。クラウンになったらきっと、もっと綺麗だよ。
そんなルカの心の中など知らず、香代は前歯の欠けているルカを気遣うようになるべく笑顔で声をかけた。
「えっと・・歯の治療は初めてなんですって?ちょっと緊張してるかしら?」
陽子も心配そうに、ルカを見やる。ルカは少し考え込むような心配そうな表情になり、それを見た香代は提案した。
「陽子ちゃんの治療を先にして・・歯の治療がどんな感じか見てもらおうかしら。・・って、陽子ちゃん、お友達に治療見せても大丈夫?」
「はい!」
・・もちろん。ルカは、私の歯のこと、全部知ってるもん。そばで見ていてくれるなんて、心強いくらい。
陽子は、満足そうに頷き、ルカも、顔が笑顔に輝きそうになるのをぐっと抑え、ホッとしたような表情を浮かべてみせる。
「でも、逆に怖くなっちゃうかな・・今日は、陽子ちゃんは・・・」
カルテをめくりながら、香代は言った。ずしりと重そうな、厚みのあるカルテだ。見たい。ルカの目は釘付けになった。
「ちょっと大変な治療なの。」
ごくり。ルカの喉が鳴ったのを、香代は緊張のためだと受け取ったらしい。
「・・そうね、どうしたいか、ルカちゃんが決めていいわよ。」
ルカは、自分を見つめている陽子と香代の顔を交互に見比べてから、口を開いた。
「えっと・・先に、陽子の治療を見せていただいてからでもいいですか?」
「ルカちゃんがそうしたいなら、それでいいわよ。」
香代は笑顔で答え、ルカの目は、香代が上の歯にも金インレーを隠し持っているのを見つけたのだった。
「じゃあ、陽子ちゃん、始めましょうか。右下の・・抜いたところにブリッジ入れる準備に入るわね。その前と奥の歯も、もう虫歯の治療済みの歯だし、けっこう大きく削ってあるから・・・ブリッジにするためには、クラウンをかぶせることになるのね。今日は、奥の歯の神経を抜いていきましょ。」
神経を抜く、と聞いて、陽子の顔が歪んだ。あの治療は痛いのだ。
自分の方を妙に真剣な顔で見ているルカに、
「たぶん、泣いちゃうと思うけど・・びっくりしないでね。神経を抜くのって、すごく、痛いの。」
と言い訳し、力強く頷き返してくれるルカの顔を見てホッとしながら、陽子はいつもより少し落ち着いた気持ちで治療台に上った。
陽子がエプロンをつけると、すぐに、ウィィィン、と、治療台が倒される。
「あの・・もうちょっと近くで、見てもいいですか」
ルカはおそるおそる声を掛けた。これから、自分の目の前で、陽子が治療を受ける。せっかくだから、しっかり見たい。
香代は、手袋をはめながら微笑を浮かべて振り返り、
「いいわよ。あ、椅子持ってきてあげて。」
と言ってくれた。ルカは、高さの調節もできる、補助者用の椅子をもらい、どこがいいかと見回した。
「もう他の患者さんも居なくて、邪魔にもならないから、好きに動いていいわよ。怖くなったら向こうに行ってもいいし。」
と、衛生士までもがうれしい言葉をかけてくれる。
「ありがとうございます。」
ルカは、丁寧に頭を下げると、陽子の顔がよく見える場所を選んだ。すでにライトが調節され、口の周囲がひときわ明るく照らされている。
陽子もルカに気付き、治療台に横たわったまま、ルカの方を見て、少し弱々しく微笑んだ。
「じゃ、陽子ちゃん、まず、麻酔するわね。軽く、あーん。」
陽子が目を閉じながら口を小さく開くと、香代はミラーで、陽子の唇を大きくぐいっと右の方に引っ張った。
ギラリ、と大きな上の6番のクラウンが光る。新しく入ったその手前、5番のインレーは、前半分が、大きく頬側にはみ出していて、これまたギラギラと光った。それとは逆に、下は仮だが、6番には白い歯が見え、両脇のインレーも頬側には見えていない。
・・どんなブリッジにするんだろ・・
3連ギラギラのがいいな、とルカが想像していると、香代は陽子の口に、くいくい、と、ロールワッテを詰め込み、手際よくシリンジで麻酔を打ち込んだ。外側と、内側と。
陽子は慣れているせいなのか、香代が上手いのか、特に痛がる様子も見せず、ルカは少しがっかりした。が、直後、
「仮歯外しちゃうわね。」
という言葉と共に、シリンジをトレイに戻した香代は、そのままタービンを手にして、陽子の口に突っ込んだ。衛生士も、ささっとバキュームを取って陽子の口に入れる。
・・うわ、いきなりきた・・
ルカの目は、両側から口の中に器具を突っ込まれている陽子に釘付けになった。何度も想像した光景ではあったが、実際に見るのはやはり違う。
ヒュィイイイイ・・・・ヒュイィイイイ・・・・
しかし、仮歯を外すだけなので、それは一瞬で終わってしまった。当然だが、痛みもない。
香代が、外した仮歯をトレイに置き、陽子の治療台を起こしながら言った。
「はい、お口ゆすいでね。」
陽子は、タオルで口を押さえながら口をゆすいでいる。麻酔がすでに効き始めて、水がこぼれてしまうらしい。
陽子が体を戻すと、またすぐに治療台が倒れ始めた。横で、香代がタービンのバーを付け替えていた。いよいよ治療がはじまるのだ・・
「まず、詰めてある銀歯をはずしてから、削っていくからね。あーん。」
香代の言葉に、陽子は頷き、さっきよりも大きく口を開けると、ゆっくりと目を閉じた。香代はミラーとタービンを、衛生士がバキュームを陽子の口の中に入れた。ルカはこくり、と唾を飲み込んだ。
チュィイイイイイイ・・・・
仮歯を外すときよりも高い音が響く。
ヒュウウゥゥ。
どういうわけか、すぐにタービンは止められた。
香代がタービンを戻し、ピンセットを手に取る。
「ん・・すぐに外れたわ。中がもう・・虫歯になってたみたいね・・」
虫歯、と言う言葉を聞いて、ルカの胸は少し高鳴ったが、陽子の顔は少し曇った。香代はそれにかまわず、新しいタービンの先を付けると、また陽子に向き直った。
「じゃ、もう一度行くわね。あーん」
再び同じ光景・・陽子が口を開け、治療器具が口の中に突っ込まれる・・・が始まった。
チュィイイイ、チュイチュイチュィイイイイイ・・・
キュィイイイイイイイ・・・・・
スココオココオオオオオ・・・
おとなしく目を閉じているだけだった陽子は、しばらくすると、ときどき、ぴくっ、と眉間に皺を寄せるようになった。やがて、眉間の皺は刻まれたままになり、足先がもぞもぞと動き始め、さらに、喉の奥からうめき声が漏れ始めた・・。
キュィイイイキュィイイイイイイ・・・
「ん・・・んぁ・・・ぁあ・・・」
チュィイイイ、チュィイイチュィイイイイイイイ
「ぁは・・は・・」
「痛いかなー、まだよー、もうちょっと頑張ってね・・・」
香代が声をかけるが、タービンが止まりそうな気配は無かった。
・・まだ止めないで・・
ルカは、身を乗り出して、痛みに顔を歪めている陽子を見つめた。
チュイチュイチュィイイイイイイ
「んぁ・・・はぁああん・・ぁあ・・はぁあん・・」
陽子の声がどんどん大きくなる。
「もう少しで開くわよ・・」
キュキュキュキュィイイイイイ・・
「はぁあああああん・・・ぁあああ・・」
キュゥゥウウ。
シュココココ・・・
ようやくタービンが止まった。陽子の目には、涙が浮かんでいる。
ルカは大きく息を吐いた。
・・このあと、抜髄だっけ・・・
歯をグリグリとされて身をよじる陽子の姿を想像する。
しかし、香代の口からは、思わぬ言葉が出た。
「このまま神経抜くのは、ちょっと厳しいかしらね。今日は一度、神経を殺すお薬詰めて、また次にしましょうか。」
口をゆすぐために起こされた陽子は、涙をぬぐいながら、小さく頷いていた。
・・えー。
ルカの勝手な不満など届くわけもなく、陽子の治療は、そこで終わってしまった。
少し薬は沁みたようだが、それ以外は実に「つまらない」ものだった。春休みだし、実は仮歯は少し違和感があった、ということで、仮歯も入れないことになった。
そんなわけで、治療台から降りた陽子は、右下に欠損を見せてルカに微笑んだ。
「見ててくれて、ありがとう・・」
「いや・・痛そうだったね。」
「うん、ちょっと泣いちゃった。」
微笑ましく会話する2人の横から、香代が言った。
「じゃ、次、ルカちゃんね。前歯と・・他にも虫歯があるらしいってことだったから、まず、検診しましょうね。」
「え・・あ、はい。よろしくお願いします。」
ルカは、自分に銀歯ができたら、やっぱり興奮するだろうか、と思いながら、治療台に座った。
治療台は、まるでオランダに行く時の飛行機のシートのように快適で、ルカは少しうっとりした。ふと横を見ると、陽子が必死な顔でこちらを見ている。
「だいじょうぶだよ」
と、小さな声で言って微笑むと、陽子は心配そうな顔は崩さずに、小さく頷いた。
やがて、治療台は、ヴィィィィン、とかすかに振動しながら倒れて行った。気持ちいい、とルカは心の中で呟く。香代がカコン、とライトのスイッチを入れ、位置とフォーカスを調節すると、衛生士が横に来てカルテを構えた。
・・うわ、ドキドキしてきた・・
心配ではなく、興奮でルカの胸は高鳴った。
「じゃ、お口あけてね。学校の歯科検診と同じだから。怖くないわよ。」
香代が、ミラーと探針をルカに見せながら言ったが、実際には、ルカは、一応香代の言葉に頷き返しながらも、香代が上の奥歯の奥に隠し持っている金クラウンと、何本かの金インレー、前歯の裏の銀色の金属を見ていた。
・・金クラウンもあったんだ・・やっぱり素敵だよ。でもそれなら、なんで前歯の裏も金に揃えないかなあ。
思いながら、ルカは口を開けた。ミラーが口に入ってきて、歯に当たってカチカチと音を立てる。
「そうね・・いくつか・・虫歯があるわ・・これは、ちゃんと全部診ていかないと。」
その言葉を聞いて、ルカは少し期待に胸をふくらませ、陽子は、ビクッ、として顔を曇らせた。
・・やだ・・ルカに虫歯があるなんて・・私と仲良くしたからうつっちゃったとかじゃないよね・・・少なくとも、ルカがそう思ってませんように・・たくさんありませんように・・
陽子が祈るような気持ちで見守る中、香代がミラーを左手に持ち替え、探針を右手に持って、再びルカの口を覗き込んだ。
「じゃ、右上からね・・早いわね、親知らずが生えかけてるわ・・まだ半分隠れてるから、頑張って歯磨きしてね、今も綺麗に磨けているようだけど。」
ルカは口を開けたまま目で頷いた。歯磨きができていなくて虫歯になるというのは、ちょっとルカの美学に反する。陽子だって、いつもピカピカに磨いているのに虫歯になっちゃう、というところがいいのだ。
素直なルカの反応に満足して、香代は先を続けた。
「次・・7番、ここはいいわ。6番・・」
香代は少し真剣な目になって、右手の探針を操った。
「溝が・・完全に黒くなっちゃってるわ・・虫歯ね・・C1。」
陽子はハッとした。この間、ルカの家に行ったとき、奥歯の溝が黒く見えた気がしたのを突然思い出した。あれは影でもチョコレートでもなく、虫歯だったのだ。そういえばあのとき、前歯も少し色が違うところがあった。陽子は、自分の虫歯が見つかったときよりもショックを受けている自分に驚いた。
「5番から・・4、3、2・・番までいいわ、1ば・・」
香代は、ミラーで上唇をめくり上げると、外側から、右上1番と2番の間を探針でなぞった。
「1番もC1ね。左上行って・・1番は、折れたのよね?」
「あい」
ルカが声を出す。
「綺麗にくっついてるみたいよ。2番、ここが・・そうね、やっぱり虫歯・・えっと、削ってみないとちょっとわからないけれど・・C1でお願いします。3番・・4、5番もいいわ、6番・・」
香代の声がまた止まり、右手が動いている。陽子は口の中がカラカラに乾くほど緊張してきた。
「C1ね、次、7番、あらー、これはちょっと進んでるわね・・」
「んんっ」
直後、ルカがビクッとして痛そうな声を上げ、顔をしかめた。
・・ルカ!!
陽子は駆け寄りたいほどの気持ちだった。香代は右手の探針を置くと、スリーウェイシリンジを取り上げ、プシュッ、とエアをかけた。さらにルカは声を上げた。
「ん、んぁあ・・」
・・ルカをいじめないで!
陽子が睨みつけているのには気付かず、香代は事もなげに
「そうね、痛いわね・・ここはC2ね。」
と告げてから、再び探針を手にした。
「ここは8番はまだ、左下に行って、ここも8番はまだね、7番はいいわ、6番・・またC1ね」
・・また!
陽子は泣き出す寸前だった。もう何本虫歯だったんだろう・・
「5番から・・・・後は全部、右下7番までいいわ。」
香代は、ミラーと探針をコトリ、とトレイに置いた。
・・・自分の歯だけど、ちょっと興奮しちゃった・・やっぱり、検診っていいな・・・
ふう、と、ルカが小さく息を吐く。
・・でも、何本あったっけ?左上はけっこう痛かった・・治療って、もっと痛いのかな・・・
自分でも、少し心配になってきた。
「そうね、欠けてるところの他に・・小さいのが4本と、進んでるのが1本あるわ。」