「ちょっと、かっくん、歯磨いてないでしょ、寝るなら磨いてからにしなって。」
「んん・・めんどくさいよ・・」
「もう、何言ってるのよ、歯医者のくせに・・」
和歌子は、ソファで寝ている彼氏を揺すった。彼氏の吉野克実は、衛生士である和歌子が勤める歯科医院で歯科医として働いている。来月結婚する予定だが、和歌子は先週末、この家に引っ越して来たのであった。
今日は一緒に住み始めてから初めての休診日で、二人でドライブに行き、家で和歌子が作った夕飯を食べたのだが、和歌子が後片付けをしている間に、運転で疲れたのか、吉野は眠ってしまっていた。
「しょうがないなあ、私が磨いてあげるから。それならいい?」
「ん・・」
男の人って、歯磨いてあげると喜ぶよね、というのは、歯科に勤める女性たち・・衛生士でも女医でも・・の間では有名な話である。男性が歯科医でも、例外ではなかった。吉野も、ちょっと嬉しそうな声を出す。
「まったく、最初っから手がかかるったら」
和歌子は、洗面所に行って、歯ブラシを手に取った。けっこう大きい歯ブラシだ。
もっと小さめの方がいいんだけどな・・・たしか私、何本か持って来たよね・・
引き出しを開けて、歯ブラシを探す。
「ああ、あった。」
医院で売っている箱入り歯ブラシを見つけ、1本取って封を開ける。ふと、その横にフロスも見つけた。
これも、絶対使ってないんだろうなあ・・
仕事はけっこう几帳面だが、私生活では、吉野は案外いろいろとテキトウなのであった。歯磨きも、歯医者とは思えない位にいい加減で、毎回みっちり5分、毎晩のフロスも欠かさない和歌子から見ると信じられないの一言である。まあ、和歌子はそれでも虫歯になってしまうのだが・・
歯ブラシを水に濡らし、見つけたフロスも持って、和歌子はリビングに戻った。
なんと、吉野は座って待っている。
「ちょっと、起きたんなら自分でやってよ」
「磨いてくれるって言うから起きたんだよ」
和歌子は苦笑いしながら、床にぺちゃんこ座りをした。
「はい、じゃあここに頭載せて」
腿を叩くと、吉野はいそいそと横になり、言われた通りにした。
ホント、歯磨いてもらうくらい、何がそんなに嬉しいんだか・・
首をかしげながらも、和歌子も嬉しくなり、よしよし、綺麗にしてあげるからね、という気分になる。
「じゃ、あーん」
「あーん」
天井の明かりに、吉野の口の中でインレーがキラキラっと光った。
特に丈夫でない普通の歯の場合、手入れが悪ければ、簡単に虫歯になってしまうということがよくわかる口内状況だ。
奥歯はまだ全て神経が生きている生活歯だが、インレーが大小さまざま、上は左5,6,7番と右6,7番の5本、下は左右6,7番の4本、全部で9本の歯に入っている。前歯には、メタルボンドの差し歯も2本。当然、スポーツか何かで折ったのだろうと思っていたが、虫歯のせいだったらしい。
絶対、普通より多いわよね、虫歯・・・
シャコシャコシャコ・・と丁寧に磨きながら、和歌子は小言も忘れなかった。
「ちゃんと磨かないと、また虫歯できるよ。もう・・」
「あいあい・・」
まさか歯医者を相手に、歯磨きしなさいって説教しないといけないなんて。
歯磨きが終わり、口をゆすいで戻ってきた吉野に、和歌子はフロスの容器を見せた。
「今日はきっちり綺麗にするからね。ずっとしてないでしょ。」
「あ、あはは。ばれた?」
「笑ってごまかさないの。」
「かなり面倒だし、フロスって。やったら気持ちいいのはわかってるんだけどさ・・」
「気持ちいいとかいう問題じゃないでしょ。もうー。ほら。」
再び、腿を叩いて、寝かせた。
ぴーっ、とフロスを取り、指に巻きつける。
「はい、あーん」
「あー」
下の歯、前歯の中心から始める。
「けっこう溜まってるじゃないの・・。」
ぶつぶつ言いながら、左右の奥歯、上の歯の前歯・・と進めていく。
ここで終わり、っと・・
最後の箇所、右上の6番と7番の間は、少し抵抗を感じて、和歌子は指先に力をこめた。
「んっ・・あっ」
コロッ。
「んぁ?」
引き抜いた拍子に、7番のインレーがコロリ、と取れてしまった。
「ちょ、ちょっとそのままね・・」
和歌子は、吉野がインレーを飲み込んでしまわないように気をつけながら、舌の上に落ちたインレーを摘み上げた。
「取れちゃったわ・・」
「ありゃ・・」
吉野も起き上がり、舌で奥歯を探っているようだ。
「7番か・・見せて。」
吉野が出した手の上に、インレーを載せた。二人で、じぃっ、と眺める。
「けっこう大きいのね」
「ん・・これ何時入れたんだっけな・・セメントの劣化とかだといいけどな」
不安そうな表情になって、吉野は立ち上がって、洗面所に向かう。和歌子も後に続いた。
引き出しからミラーを取り出し、正面の鏡に映してみるが、微妙に暗くてよく見えない。
「見えないな・・ま、明日診てもらうかな」
「・・痛む?」
和歌子が心配そうに聞いた。
「いや・・」
答えた後で、舌で探って、少し目を細める。
「ん・・・」
少し顔が曇る。言われてみると少し痛む気がするような、しないような・・
吉野は、ぷるぷる、と頭を振って、コップに水を入れた。とりあえず口をすすごうと、口に水を含む。
「んんっ!」
と、冷たい水がてきめんにしみた。顔をしかめ、右手で頬を押さえた吉野を、和歌子が覗き込む。
「ごめんね・・大丈夫?」
吉野は水を吐き出して、答えた。
「いや、謝ることじゃないよ・・・・」
強くはないが、じーん、とした嫌な痛みが残っている。頬の上から、押さえてみたりするが、もちろん痛みが消えるわけはなかった。
お風呂を入れたり、洗濯物をたたんだりしてから、和歌子がリビングに戻ると、吉野はソファに浮かない顔で座っていた。
「まいったな・・痛ぇ・・」
ため息をつきながら、頬をさする。
「薬、飲んでみる?それとも・・夜間診療所行く?」
「ははっ、まさか。」
吉野は笑った。さすがに、歯医者が、歯が痛いんです、と、のこのこと夜間診療所に行くのは恥ずかしい。
「とりあえず、薬くれるかな?」
和歌子が持ってきた薬を流し込む。
これは、セメントの劣化とかで取れたんじゃないよなあ・・・
吉野は何度目かのため息をつきながら思った。治療が怖いということはもちろんないが、やはり憂鬱だ。抜髄かもしれないと思うと、なおさらだ。
「はぁ・・そうだ、あいつに電話しよ・・」
「あいつって?」
心配そうに見ていた和歌子が聞いた。
「若林。明日早く来てもらうか・・これから診てもらうかなんかしようと思って。」
若林留美は、やはり同じ歯科医院で働く女医だ。吉野とは大学からの同級生で、しかも、同じ研究室に居たらしい。吉野と和歌子が付き合い始めた頃・・院長がもう一人歯科医を雇いたい、と言ったときに、知り合いでは一番手先が器用だ、と言って吉野が連れてきたのだが、二人が妙に仲が良いように見え、和歌子は以前から少し気にかかっていたのだった。本人達はただの同級生だと言うし、院長の三波も「まあ研究室の同期ってのはああいうものだ」と言ってくれるのだが、専門学校は女性ばかりだった和歌子には、どうにも理解できず、二人が楽しそうに話しているのを見ると気が気でなかった。
「そんな。もう遅いじゃない。それに、院長でいいじゃない。」
「まだ・・10時だろ。院長より頼みやすいし。」
そう言って、吉野はそばにあった電話の子機を取った。
何も見ずに番号を押している・・たしかに吉野は電話番号を覚えるのが得意らしいのだが・・いちいち気になる。
「もしもし・・吉野ですけど。・・先生、緊急事態です。インレーダツリ。・・え?ああ、和歌子じゃないよ。俺。・・・明日の朝でも今からでも。・・実はちょっと痛むんだよね・・・ホント?助かったよ。ん、じゃあな。」
電話を切ると、吉野は和歌子に言った。
「朝苦手だから、今から診てくれるって。助かった。和歌子も一緒に来てくれる、よな?まあ、遅いから、嫌だっていうなら無理にとは言わないけど。」
吉野と留美が二人きりというのは嫌だったので、もちろん行く気だったが・・・歯が痛い吉野の役に立てるのは自分ではなく留美で、自分は居ても居なくても別に良いのだ、というところに気付かされて、和歌子は気持ちが沈むのを感じていた。
吉野は歯が痛む上に薬を飲んだので、和歌子が車を運転して、三波歯科に到着した。すでに明かりがついている。
診察室に入ると、留美が待っていた。
「すみません・・お休みの日の、しかも夜に・・」
和歌子は頭を下げた。
「休みの日の夜に、って、熊谷さんも同じじゃない。時間外勤務手当て、たっぷりもらわなくちゃね。」
留美が笑って言った。白くて綺麗な歯がまぶしい。これは逆に、吉野が治療したものだ。
早速、和歌子が準備をしていると、後ろで二人がしゃべっているのが聞こえた。
「でも、奥さん、って感じで初々しくて可愛いわー。あこがれちゃう。」
「じゃあお前も早く結婚しろよ、相手がいればの話だけどな。」
「そうそう、1人じゃできないのねーこれが。っていうよりも、可愛い奥さんが欲しいわね。」
「・・だよな」
「ちょっとは否定してよ。それより、さっさと座ったら。」
「怖いな、患者様には優しくしろよ。」
妙に楽しそうだ。
ちょっと、歯が痛かったんじゃないの!
和歌子は少しムッとしながら、ようやく治療台に座った吉野にエプロンをつけた。
それを合図にしたかのように、留美も、すっと歯科医の顔になった。カルテを見ながら、落ち着いた声で訊ねる。
「で、どこが取れたの?持ってきた?」
「右上の7番・・これ、何時入れたんだっけ・・」
和歌子が、外れたインレーをトレイに載せて渡すと、留美は少し眺めてから言った。
「ああ、実習中じゃないの?大先生が、都合よく虫歯のある学生がいるとは、って褒めてたの吉野君でしょ。」
「あー。思い出した。とすると・・7年くらい前?」
また二人の世界だ・・
和歌子は胸がちくちく痛んだ。
「取れるにはちょっと早いわね・・ま、痛むんだから2次カリの可能性が高いわよね、じゃ、熊谷さん、お願いします。」
留美がマスクをつけ、治療台を倒すスイッチを入れた。
和歌子も補助者用の椅子に座ってスタンバイする。
倒れていく治療台の上の吉野と目が合うと、吉野は微笑んでくれ、和歌子はちょっとホッとした。
「じゃ、ちょっと見せて・・あーん・・」
留美が、右手でライトを調整しながら、ミラーを持った左手を吉野の顎にあてがい、口を開かせる。
「もうちょっと大きく」
「あー」
「ん・・、うーん・・・」
患歯をミラーで確認して、綺麗に整えられた眉を少しひそめた留美は、右手でエキスカベータを取り、ガリガリ、と引っ掻いた。
「あ・・ぁがっ」
吉野が、痛みに声を上げた。
「あー、あっさり露髄しちゃったわ・・見る?」
「あ?ああ。」
目を開けて留美を見上げ、小さく頷く吉野。
「じゃ、自分で調節してね・・こっち側がね・・見えるかな、ほら・・・」
「あー、ああ・・。」
言われたとおり、ライトの横のミラーを自分で調節して見ているらしい。ほら、と言われて、虫歯を見せられているのか、吉野も眉をひそめている。
「ま、この色は・・抜くしかないわね、吉野くん。」
少し嬉しそうに宣告した留美が、和歌子に言った。
「熊谷さん、麻抜の用意お願い。ああ、それから、ネットもね。」
立ち上がり、器具の棚に向かいかけた和歌子が、聞き返す。
「え?ネット・・ですか?何ですか?」
ネット、と呼ぶようなものは・・小児の拘束に使うネットしか思いつかないが・・
「ネットはネット・・レストレーナよ。」
「い、いや、要らないって。」
少し口の端に微笑を浮かべて言う留美の言葉に、少し動揺したように起き上がりかける吉野の声がかぶる。
和歌子はどうしていいかわからず、立ち止まった。留美の表情を見たときは冗談なのかと・・あまり気持ちのいい冗談ではないなと思ったのだが、吉野の動揺を見ると、本当かもしれないという気持ちが頭をもたげた。
「あの・・・本当に?」
「要らないって。」
吉野が治療台から体をねじって和歌子に首を振って言う横で、留美はゆっくりと頷いた。
「本当よ・・・暴れるわよ、この男は。奥さんになる人の前でこんなのを見せるのも気が進まないんだけど。」
「おい・・」
と言う吉野の方を向いて、留美が諭すように言った。
「だって、私たちしかいないのよ。しかも抜髄よ。痛いわよ・・・暴れるに決まってるじゃない。熊谷さんに怪我させたらどうするのよ。」
吉野は何も言わなくなった。
「と、そんなわけだから。ネットもお願い。」
あらためて留美に言われ、和歌子は困って吉野を見たが、彼は元のように仰向けの体勢に戻ってしまい、こちらを見てもいなかった。
和歌子は黙って頷き、麻酔と抜髄セット、そして・・緑色のネットとタオルを用意した。
少し、来たことを後悔した。嫌ならムリにとは言わないと言われたとき、少し眠かったのだから来るのをやめればよかった。目の前で吉野が縛り付けられるのを見ると知っていたら来なかった。この男は暴れるわよ、と留美に言われたのもショックだった。
「ああ、もう、つけちゃってくれる?」
ネットとタオルを手に茫然としていると、留美から声がかかった。
「わ・・私がですか・・」
「・・・やったことあるわよね?」
留美はファイルを点検しながら、和歌子の方を見向きもせずに聞いた。
「・・はい。」
和歌子は頭を垂れた。吉野の顔をちらりと見ると、目を伏せ、斜め右のほうを見ている。しかし身体はきっちりまっすぐで、手も身体の横に沿え・・レストレーナをかけられるように用意しているようでもあった。
「・・し、失礼します・・あの・・ごめんね・・」
少し声が震えたのが聞こえたのか、吉野の目が和歌子を見た。目だけで軽く頷く。
和歌子は唇を噛んで、まず身体にバスタオルをかけた。子供用なので少し小さく、膝から下が出てしまう。しかも、キャラクターが付いていて、こちらに満面の笑顔を向けている。
そして、その上からレストレーナ。まず身体の右側から・・フックに網を引っ掛け・・少し引っ張るようにして、こちら側、身体の左側のフックにも引っ掛ける。
「あの・・痛く・・ないですか」
吉野が黙って首を振る。和歌子も軽く会釈を返して、そのまま続けた。
足まで覆うために、2枚使う。
そうして、作業が完了した。